田畑政治(たばたまさじ)経歴や妻息子や子孫は?浜松一中オリンピック

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田畑政治(たばたまさじ)は、のちに「水泳ニッポンの父」と言われるようになりますが、浜松一の資産家と言われる、江戸時代から続く造り酒屋(八百庄やおしょう)の次男として生まれます。
ちなみに、金栗四三の実家も造り酒屋で、嘉納治五郎の実家も菊正宗酒造・白鶴酒造です。

静岡県浜松は、水泳が盛んで、日本古来の泳法で遠泳に励む若者たちを”浜名湾のかっぱ”と呼びました。

田畑政治(たばたまさじ)も、そのうちの一人でしたが、大病を患い水泳を諦めます。

後に、世界で戦える水泳選手の育成に腐心し、大学を卒業して、新聞記者になりますが、政治家たちと渡り合いながら、スポーツの地位の向上のため尽くし、やがて東京オリンピック開催を目指し奔走します。

せっかちで、思い立ったらすぐに行動で早口ですが、愛されキャラだったそうです。

後に、鳩山一郎氏によると、ロサンゼルスオリンピックで、日本を一流のスポーツ大国に躍進させた最大の功労者と称します。

そんな田畑政治(たばたまさじ)について、まとめました。

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田畑政治(たばたまさじ)経歴

田畑 政治(たばた まさじ)

生年月日:1898年(明治31年)12月1日~1984年8月25日

出身地:静岡県浜松町成子(現・浜松市中区成子町)

教育家、新聞記者、水泳指導者

長きに渡り日本水泳連盟会長を務めた他、1964年東京オリンピックの招致活動におけるキーマンの一人として知られています。

裕福な家庭で育ちますが、父や兄が短命の家系とあり、田畑政治さん自身が幼少の頃から、体が丈夫でないため、浜名湖で泳ぎを覚え鍛えます。

ところが、小学校4年生の時、慢性盲腸炎に大腸カタルを患い、医師から水泳をやめるようにといわれ、水泳の道を断念します。

この時の悔しさから、「世界一」へのこだわりを持つようになり、それが「世界一の選手を育て上げる」というマネジメントの立場へと移っていくことになります。

浜松中学(現・浜松北高)、旧制一高(現・東京大学教養学部)を経て、

1924年(大正13年)東京帝国大学を卒業

1924年、25歳、朝日新聞社(東京朝日新聞)に入社します。

その後は政治経済部長などを務め、1949年に常務に就任した。

一方で田畑は水泳指導者としても活動し、1932年のロサンゼルスオリンピックなどの大きな大会で日本代表の監督を務めます。

1939年には日本水泳連盟(当時の名称は大日本水上競技連盟)会長の末弘厳太郎が大日本体育会(後の日本体育協会)理事長に就任したことから、田畑も末弘を支えるべく新たに設けられた理事長に就任します。

1948年、戦後になると、日本水泳連盟の会長に就任。ロンドンオリンピック参加を断られると、日本代表(古橋廣之進・橋爪四郎ら)の実力を見せつけるべく、日本選手権の決勝をロンドン五輪と同日に開催し策士ぶりを発揮します。

1949年の国際水泳連盟(FINA)復帰につなげるなど大胆な組織運営を行います。

1952年(昭和27年)ヘルシンキオリンピック、1956年のメルボルンオリンピックと二大会連続で日本選手団の団長を務めます。

戦後間もない時期から東京へのオリンピック招致を訴えており、五輪招致活動においては中心人物の一人として以前から親交のあったフレッド・イサム・ワダなどの人物を招致委員に引き込むなど活躍します。

1959年(昭和34年)、1964年の東京開催が決定すると、田畑もその組織委員会の事務総長に就任し開催に向けて活動します。

正式種目に女子バレーボールを加えるロビー活動の、陣頭指揮にも立ちます。

しかし、1962年の第4回アジア競技大会でホスト国のインドネシアが台湾とイスラエルの参加を拒否し、それに対して国際オリンピック委員会(IOC)がこの大会を正規な競技大会と認めないという姿勢を打ち出したことで日本選手を出場させるべきかという問題に巻き込まれることになります。最終的に日本選手団は(競技自体が中止された。)重量挙げを除いて出場したものの、この問題の責任を取る形で田畑はJOC会長で組織委員会会長の津島寿一とともに辞任することとなってしまいます。

1964年(昭和39年)、65歳、第18回東京オリンピック開催

1973年には日本オリンピック委員会(JOC)会長に就任した(1977年まで)

1984年勲二等旭日重光章を受章

田畑政治(たばたまさじ)妻息子や子孫は?

田畑政治さんは、1933年(昭和8年)35歳の時、酒井吉之助の娘・菊枝さんと結婚。

一男二女を授かります。

長女の治子さんについては詳しいことはわかりませんが、次女の醇子(あつこ)さんは、カリフォル二ア大学に留学しています。

田畑政治さんの東京オリンピックの協力者である、フレッド和田氏は、アメリカロサンゼルス在住の実業家で、その縁で、醇子(あつこ)さんがアメリカに留学している間、和田宅にホームステイをしていました。

その後、醇子(あつこ)さんは帰国すると、和田宅で教わったチーズケーキのレシピを、親戚が営んでいた浜松にある「まるたや洋菓子店」で教え、その商品は今も購入できます。

長男の田畑和宏さんは、1940年生まれのようです。元NHK理事、元NHK交響楽団理事長を務めていました。

フジサンケイの基礎を作った水野成夫氏は、いとこになり、その長男水野誠一氏の妻は女優の木内みどり

浜松一中

1932年(昭和7年)第10回オリンピック・ロサンゼルス大会水泳総監督を務めます。

浜松一中在学中の宮崎康二が100m自由形と800mリレーで金メダルを獲得し、世界新記録を樹立します。


イケメンなんですが・・・

田畑政治(たばたまさじ)オリンピック

NHK大河「いだてん」では、1964年の東京オリンピック招致に向けて、奔走する田畑政治さんの姿を描きますが、オリンピックとの関わり合いは、1932年第10回オリンピック・ロサンゼルス大会から始まっています。

第10回オリンピック・ロサンゼルス大会は、ストックホルム大会の初参加で、金栗四三が味わった惨めな挫折から20年経っていました。

世界的な不況を背景に辞退する国が多い中、日本は131人の選手を送り込んでいます。

前年の満州事変により、国際的に孤立をしていた日本にとって、平和ムードを演出するには、絶好の機会でした。

また、日本の国力も欧米の脅威となるほどに飛躍して、スポーツの世界でも、各種目で選手たちは、予想以上に活躍をします。

競泳陣を率いた田畑政治(たばたまさじ)は、身長こそ低いですが、恰幅が良く、選手以上によく動き回って目立っていました。

本業は新聞記者ですが、鳩山一郎や高橋是清といった大物政治家とツテや面識があったことから、説き伏せ協力を得るなどをしていました。

鳩山一郎と言えば、言わずと知れた、この方のお祖父さん

明治神宮外苑に本格的な国際規格のプールも田畑政治の尽力によるものです。

田畑政治(たばたまさじ)の死因

1984年、2月食事をのどに詰まらせたことから、酸素欠乏症のため、脳の一部に障害が残り入院生活を余儀なくされる。

7月肺炎を併発。ちょうど7月28日からロサンゼルスオリンピックが開催されますが、
その前日から、危篤状態から病状が持ち直し、意識が混濁したままで、ベットの隣に設置されたテレビから中継される開会式に涙をにじましていたそうです。

オリンピックが閉会して約2週間後の8月25日、85歳で死去。

まとめ

嘉納治五郎にしても田畑政治にしても頭脳が良いだけでなく、文武両道と言っていいと思いますが、行動力も半端なかったと思います。

田畑政治など、本業の傍らで、オリンピックに進出すべく尽力していたというのですから、どちらが本業なのかわからなかったかもしれません。

ですが、単純に事務的なことで奔走していたわけではないようなので、面白くて仕方がなかったと思います。

濃くて愛されるキャラだったからこそ、成しえたのかなと思います。

ドラマでは、田畑政治さんの役を阿部サダヲさんが演じますが、実物とあまり似通っている雰囲気とは思えないのですけれど、濃くて愛されキャラを強調するための人選なのかなと思いました。

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