いだてん第1話の感想ネタバレとあらすじ 「夜明け前」コラム

いだてん おりん役モデル実在?若い頃の女優夏帆(かほ)年齢や結婚? いだてん

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2019年1月6日(日)

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あらすじ

昭和34年(1959年)5月、落語家の古今亭志ん生は、タクシーに乗って浅草の寄席に向かっていました。

車の中から外を見ると、オリンピック招致を目指す東京は、高速道路の建設工事が各地で行われ、交通渋滞が頻発しています。

ふと志ん生は、足袋を履いた男が走る姿を見るような気がします。

「富久の幇間(たいこもち)じゃねえか?」

同じころ、東京オリンピック招致で、2週間後を予定しているミュンヘンで行われる予定の国際オリンピック委員会の総会でスピーチを予定していた外交官の北原秀雄が、あろうことか運動会でケガをして全治3か月の診断を受けます。

その代理となったのが、NHKの解説員である平沢和重です。

平沢は、もとは外交官で、かの嘉納治五郎の最後を看取った人物だと、総会で紹介を受けます。

平沢は流ちょうな英語で「東京は極東(Far east)に位置しております。航空機の発達で”極”は消えましたが、国際的な理解や人間関係においては、この距離は解消していません。今こそオリンピックを五輪の紋章の一つ、アジアで開くべきではないでしょうか」

翌年の昭和35年(1960年)、東京オリンピックの話題で持ちきりです。

志ん生は、若いころを振り返り高座で、50年前の日本のオリンピックにまつわる話を始めます。

それは明治42年(1909年)、スポーツと言う言葉さえも知られていない時代です。

志ん生の本名である美濃部孝蔵は、貧乏暮らしをしていて、親しくしている車夫の清さんが、嘉納治五郎という紳士を乗せたという。

その人こそ、講堂館柔道の創設者である嘉納治五郎は、ストックホルム大会を目指して派遣する選手をどう選ぶか苦戦をしていました。

嘉納治五郎は、フランス大使のジェラールと面会しますが、ジェラールは、日清戦争や日露戦争と大国に勝利した日本の秘密を知りたいとの思いから嘉納治五郎が選ばれます。

嘉納治五郎は、校長を務める東京高等師範学校(東京高師)で、教授の永井道明と助教授の可児徳(かにいさお)にオリンピックの話をします。

嘉納治五郎は可児とともに、横浜正金銀行副頭取の三島弥太郎のパーティーで、大隈重信を相手に日本のオリンピックの参加の意義を話します。

大隈重信は、三島に嘉納治五郎を紹介しオリンピックの参加資金の援助を頼みますが、嘉納治五郎は、すでに横浜正金銀行から清国からの留学生を受け入れるための「弘文学院」という学校を開校するために借金をしていました。

そんな中、弥太郎の弟の弥彦が野球のボールを追って、可児にぶつかりますが、そこへ「天狗倶楽部」の若者たちが現れます。

後日、三島から融資を断ると正式な連絡があり、嘉納治五郎は、ジェラールに辞退を申し入れようとフランス大使館を訪ねます。

ところが、そこで嘉納治五郎は、ストックホルムオリンピックのための資料を見せられ、ポスターには日の丸も描かれているのを目にして、思わず「謹んでお受けします」と応えるのでした。

明治43年(1910年)10月、アジア人として初めてIOC委員となった嘉納治五郎にオリンピックの招待状が届きます。

日本体育会会長の加納久宣(かのうひさよし)は、日本に世界レベルの選手などいないと反対をしますが、嘉納治五郎は、「必ず、いだてんはいる」とあきらめず、大日本体育協会を設立し、天狗倶楽部と話し合って、オリンピックに出場する選手を決める大会を開くことにしました。

多額の費用については、嘉納治五郎は、自宅を抵当に入れて、さらに借金をすることになります。

明治44年(1911年)11月19日、京浜電鉄が所有する敷地に作ったグラウンドで、予選大会が開かれ、全国から19人の健脚が集まり、その中には、車夫の清さんが早稲田の選手のふりをして混じっていました。

ところがレースが始まると、雨が降り出し、やがて土砂降りになったことから、落後するものが続出する中で、嘉納治五郎は、「彼こそ、いだてんだ」と、その男こそ、東京高師の生徒・金栗四三(かなくりしそう)でした。

記録は「2時間32分・・・世界記録更新だ!」

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感想

ビジュアルが楽しい!

タイトルが横尾忠則さんなのは事前にわかっていましたが、オープニングの東京の街並みを描いた絵画は日本画家の山口晃さんなんですね。

「いだてん」は、昭和30年代と明治時代をとりあげたドラマですが、これまでのドラマや映画の印象で、管理人の中では、どうしても白黒のイメージが強いのですけれど、そこに色彩豊かな色が入ると、それだけでワクワクしてしまいます。

勘九郎さんのさわやかでクセのないさまが、なんとも「いだてん」にふさわしいです。

昭和34年、東京オリンピックの招致が決まるかどうか、そんなころ、道路が整備されず、砂ぼこりの中を、足袋をはいたランナーが街を走っていく姿が映されます。

ビートたけしさん演じる古今亭志ん生の若いころを森山未來さんが演じてるのですが、このギャップが、ウケました!

絶対、ないでしょ。

ともかく、キセルをふかした森山さんの荒くれた感じ、なかなか良かったです。

東京オリンピック決まる

昭和35年、街頭テレビで古今亭志ん生の話に耳を傾ける人たち。

師匠は、自分の若かったころ、浅草がにぎわっていたころの話を始めますが、一番運のなかったころだと語る師匠ですが、それを演じるビートたけしさんの若い時と被るようで面白いです。

若かりしころ美濃部孝蔵と名乗っていた古今亭志ん生は、柔道の創始者であり、日本スポーツの父・嘉納治五郎のことを語ります。

鉄砲を持つ子供たちにドキッ

日本は、日清戦争に日露戦争と、大国を相手に連戦したと、欧米では、どうしてアジアの小国が強いのか、不思議に思われていたようです。

まだ小学生くらいの子供たちが、鉄砲を持って、戦闘の訓練をさせられている場面に、時代を感じてしまい、驚いてしまいました。

天狗倶楽部

東京・千駄ヶ谷にある、横浜正金銀行副頭取の三島弥太郎の邸宅でパーティーが開かれています。

明るい日差しの中、嘉納治五郎は、三島弥太郎にオリンピックの参加資金の援助を頼みますが、三島は「スポーツは心底きらい」と面と向かって言い放ち、嘉納治五郎は面食らいます。

優雅な雰囲気の中で、突如、場違いとも思える野球のユニフォームを着た若者がボールを追いかけて、パーティーに乱入したような形で勢いよく入ってきます。

三島弥太郎の弟の弥彦は、「ボールを取った」と元気よく言うと、「天狗倶楽部」と称する男たちがぶしつけにも乗り込んで、なんの躊躇もせず、ビールをラッパ飲みを始めます。

ひときわワイルドな男は誰なんだと思ったら、満島真之介さんなんですね。

ひたいを広げたズラ姿に、感嘆しました。

こんな荒くれ野郎な満島さんを応援したくなりましたw

作家の押川春浪を中心とした天狗倶楽部は、早稲田、慶応、帝大とトップエリートがいたそうですが、チャラかったみたいです。

出場を決める

嘉納治五郎は、「まだ日本にはオリンピックなど早い。スポーツの精神など根付かない」と言って、オリンピックを辞退しようと、ジェラールのところへ行きます。

ところが、ジェラールからまだ見ることのないスタジアムの設計図やらポスターを見せられます。

そのポスターには日の丸のようなものも描かれているのを目にして、嘉納は感激したのでしょう。

「スポーツ精神など根付かない」と言っていた嘉納ですが、「オリンピックに参加する」と応えます。

この嘉納の好奇心と感動が、その後のオリンピック参加の決め手となるのですから、これは大きな決断でした。

嘉納は、興奮したのでしょうが、フランス語の通訳を後目に英語で「スポーツで国際的に交わることは、世界平和の実現に役立つでしょう」と返事をします。

嘉納はフランス語で平和を意味する「ぺ」を強調しますが、役所広司さんの温かみのある姿で、「ぺ」と言われると、どこかユーモラスを感じます。

オリンピックに向けて嘉納先生は、オリンピック招待とエントリーシートが来たと「日本体育協会」を掲げますが、永井と日本体育会の加納は、今の日本に世界レベルの選手などいないと反対します。

嘉納治五郎は、「いだてん走りのいだてんがいる!」と叫びます。

反対する加納に、同じ「かのう」でも違いすぎると、嘉納治五郎は、「大」の字を書いた紙を「日本体育協会」の看板の上に掲げ「これで、どうだ!」

この無茶ぶり、痛快です!

いだてん現る!

オリンピックのために、嘉納治五郎は、自宅を抵当に入れて、持病を抱えても尽力を尽くそうとしています。

ようやく運動会が行われますが、雨が降ってきて、落後者が続き、永井は「責任問題です。羽田の悲劇です」と嘉納を責めます。

嘉納は、じっと黙って永井の批判をかわしていると、ぼくとつと降りしきりる雨の中を、前のめりにひた走る青年の姿を見つけます。

頭から血を流しながら走りとナレーションは語りますが、どう見ても歌舞伎の「くまどり」です。

嘉納は「いだてんだ!」と、うれしそうに叫びます。

しかも、2時間59分45秒と、世界記録を更新したと言うではありませんか!

嘉納には、願ったりかなったりの、まさに「いだてん」です。

日本にも世界レベルの選手は、いたんです。

嘉納の目には狂いがなかった!

それにしても、当時のユニフォームは、どうしても「ステテコ」にしか見えません。

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コラム

初めてのオリンピックは返上された!

日本において初めてオリンピック招致が決まったのは、実は1964年よりも古く1940年(昭和15年)の事だった。
日本にとって1940年は、神武天皇の即位から2600年にあたる記念すべき年であるため、キリがいいことから政府及び東京都主導の下、オリンピックの招致活動が行われたのだ。

積極的な招致活動が実を結び、1936年の国際オリンピック委員会総会で1940年の日本におけるオリンピックの開催が決まった。しかし、当時の社会情勢は悪く戦争への道へと直走る。特に、中国との関係が悪化し、満州事変から日中戦争へと加速していったのだ。

海外に対する日本の姿勢は、オリンピック参加国を含む多くの国からの反感を買うことになる。さらに追い打ちをかけるように、政府は予算を戦争へと投入することになり、日本は1940年のオリンピック開催を返上しなければならなくなった。

【筆者のコメント】
当時は国際交流が始まって間もなく、日本で初となるオリンピック開催のために多くの方が招致活動に尽力しました。返上によりその努力が無と帰するのですが、後の招致において、この経験が生かされることになります。
マラソン界の先駆者、金栗四三の夢

1891年(明治24年)熊本県は春富で生まれた金栗四三は、明治45年に行われたオリンピックストックホルム大会で、日本人初のマラソン種目に出場した。その後、マラソン界で活躍した金栗の夢は、いつか日本のオリンピックに出場することだった。

その金栗の願いに応えるように、1936年(昭和11年)夏のIOC総会で東京オリンピック開催が決定したのだ。12月19日にはオリンピック組織委員会が結成され、その直後、IOC委員を務めていた嘉納治五郎から金栗への連絡が入った。

内容を簡略化すると、「東京大会開催が決定した。金栗氏は日本人にとってオリンピックの初参加者である。ともに五輪への情熱を燃やすべく上京してともに準備を行ってほしい。」という、金栗にはまたとないものだった。

【筆者のコメント】
金栗氏にとって、自らが日本人としてはオリンピックに初めて参加しただけあり、オリンピックへの思い入れは相当なものだったでしょう。その思いが実った瞬間でした。

「オリンピックのために」金栗を突き動かした心

マラソン界で名をはせていた金栗四三は、現役を引退すると、郷土の繁栄と、スポーツ振興を願い、小田村で生活するようになった。もう二度と、状況はしないと、心に決めていた。ところが、嘉納治五郎から、オリンピック準備のために上京して欲しいという連絡があり、心が揺れる。

その様子を見て、母の幾江と妻のスヤは、金栗の「オリンピックのために活動したい」という想いをそっと汲み取った。「子供たちのことは自分にまかせて上京してください」と言うのだ。金栗は連絡が来てからすぐに荷物を詰め東京へ向かった。

東京では、目白鬼子母神近くに、金栗が住むための家が用意されていた。ただ、事務局の専任委員となるのではなく、大塚にあった十文字高女で指導にあたるようになる。女子体育の成績も振るわない時代であったが、金栗の指導が入るようになり、選手たちの技術は格段にアップした。

【筆者のコメント】
オリンピックのために、もう一度東京で仕事がしたいという気持ちは、大きかったものの、家族のことを考えては思い悩んだようです。それを暖かくサポートしたのが幾江とスヤという特に身近な存在でした。

3人目は誰だ?ウィーン総会を機に、日本人IOC委員が増えた!

1933年6月、ウィーンで行われたIOC総会では第11回ベルリンオリンピック開催の成否について議論したのであるが、これ以外に日本としては重大な決定があった。それは日本からのIOC委員を2人から3人に増やすことだった。

1人目は嘉納治五郎、2人目は岸清一、二人ともスポーツ界に精通している人物である。そして、3人目に選ばれたのは、杉村陽太郎であった。杉村は前国際連盟事務局次長であり、水泳では十海里競技大会での優勝経験もあり、柔道、乗馬と言ったスポーツの技能にも長けていた。

杉村はまた聡明であり、外交官を経験していることからフランス赴任の経験もあり、語学も堪能でフランス語も流暢に話した。日本のスポーツ外交にとっての切り札となる存在であった。3人目のIOC委員の選定は、アメリカやイギリスに並ぶスポーツ大国として認められた結果でもあるといえる。

【筆者のコメント】
日本にとって、3人目のIOC委員の誕生は非常に喜ばしいものでした。東京招致の可能性が一段と近づいた瞬間ですね。

1933年ウィーンIOC総会での議論事項とは?

1933年6月6日ウィーンのオーストリア学士院講堂にてIOC総会が始まった。日本からは嘉納治五郎が参加、5月17日の出発の際には、東京駅には東京市長の牛塚虎太郎、前東京市長の永田秀次郎、そして、公爵近衛文麿らが集まり嘉納を送り出した。

この総会で1940年のオリンピック開催地決定に触れることがあったが、正式には2年後に開催されるオスロでの総会で決定することとなった。ところで、それ以上に意見が集まったのがナチスによるユダヤ人排斥問題だった。

IOCはドイツに対し、ユダヤ人差別の撤廃とユダヤ系人物であるベルリンオリンピック組織委員会会長テオドル・レヴァルトの地位の保証をすることで、ベルリン大会の開催を認めるとした。これにより、第11回ベルリン大会の返上の可能性がなくなり、立候補国間での第12回大会招致運動が激化した。

【筆者のコメント】
ナチスのユダヤ人排斥問題を理由として一度は返上の可能性もありましたが、ドイツはそれを免れました。これにより、日本における招致活動により一層熱が入ることとなりました。

1935年2月25日オスロ総会が始まる。

1935年2月25日からオスロ大学大講堂でIOCオスロ総会は始まった。翌26日からは、1940年の開催都市決定に向けての審議が行われた。その中で、ラトゥールIOC会長は、イタリア、フィンランド、東京それぞれを平等視することを主張した。

立候補理由の説明はローマ、日本、ヘルシンキという順番で行われた。日本は杉村陽太郎が説明に立つ。紀元2600年記念のためぜひとも1940年は東京に招致したい旨、世界中を交えて国民的な記念イベントを開催したいということだった。

さらに、各国選手の派遣費に100万円の補助を支給すること、東京までの旅路が遠いのはカナダかシベリアを経由すれば早く着くということ、日本の夏季の気候はヨーロッパと変わらないこと、宿泊施設としてのオリンピック村の建設が考えられていることを伝えた。

【筆者のコメント】
ついに杉村氏による日本の立候補理由説明が始まりました。地理的にハンデがあった日本にとって、費用面や経路などのフォローをすることで、説得にあたりました。

次回第2話>>

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