いだてん感想第3話あらすじネタバレ / 天狗倶楽部とマラソン「冒険世界」

いだてん おりん役モデル実在?若い頃の女優夏帆(かほ)年齢や結婚? いだてん

スポンサドーリンク


第3話 1月20日 「冒険世界」

2019年1月20日(日)

スポンサドーリンク

あらすじ

昭和35年のある朝、古今亭志ん生の家で、見知らぬ若者がいることに驚くが、家人には黙って小松という若い男を弟子にしていました。

この小松は、朝から庭で裸になって水浴びをしていますが、古今亭志ん生は、この男に「五りん」と高座名をつけます。

明治42年(1909年)秋、四三は18歳になり、自宅で水浴びをしています。

実次は、四三に進路を尋ねると、東京高師に進学したいと答えると、実次は東京行きを賛成します。

四三は、見事東京高師に合格し、明治43年(1910年)美川とともに上京します。

美川は、学校の寄宿舎に行く前に、十二階という日本一高いタワーがあるので、浅草へ行こうと言い出します。

市電に乗って浅草へ行くと、遊女の小梅と車夫の清さんに声をかけられます。

その晩、四三と美川は東京高師の寄宿舎へ入ります。

東京高師の入学式で、四三は治五郎の姿を目にして感動します。

四三は、東京の生活でも、水浴びといだてん走りでの通学を続け、熊本出身の教師・福田源蔵(ふくだげんぞう)や柔道の達人・徳三宝(とくさんぽう)らと出会い、充実した日々を送ります。

その年の夏、四三は帰省すると春野ヤスと再会しますが、その日の夕食時、スヤは女学校を卒業したら、名家の跡取りと見合いするとシエから聞かされショックを受けます。

東京に戻ると、四三は美川に誘われ、浅草で偶然、弥彦たち天狗倶楽部による、奇妙な運動会「全国学生競走会」に出くわします。

それが、四三にとってマラソンとの出会いになります。

一方、浅草の不良少年美濃部孝蔵は落語にのめり込もうとしていました。後の古今亭志ん生です。

参考:Yahoo!テレビ

<<前回第2話 | 次回第4話>>

感想

さわやかな勘九郎さん

今日もまた、金栗四三を演じる中村勘九郎さんの、純粋で純朴な感じが一貫していて、心が現れるようです。

相も変わらず四三に厳しい兄の実次ですが、まっすぐな四三は、東京高等師範に行きたいと示すと、嘉納治五郎先生の名前を見た実次は声を荒げます。

四三は、すかさず頭を下げ、子供の頃、嘉納治五郎先生の柔道に行って、抱っこしてもらったのはウソだったけれど、お父さんが、みんなを喜ばそうと言ったことをウソだとは言えなかった。

そんな事情を話すと、そんなことはわかってた!父親代わりの実次は、ぶっきらぼうに応えます。

体が弱いことを引け目に思っている四三に、嘉納治五郎先生を超えるような人間になれと、葉っぱをかけます。

昔は長男以外は、食べるために寺子屋へ行って、勉学を身につけさせたりしたそうですが、実次もまた、四三に、ちゃんと自活できるようにしてほしかったのだと思います。

そんな兄の励ましもあってか、四三は東京高等師範学校に合格すると、荷物をリヤカーに積み、家族みんなが列車に送ってくれます。

今のように、進学率が高くなく、東京へ出て勉強するのは、よほど勉強ができないとできなかったと思います。

それをわかっているから、四三は、村を代表するかのように、村の人たちにも、四三は、「いってまいります」と明るくあいさつをします。

四三が列車に乗り込むと、兄の実次も母のシエも涙を流してまでも、別れを惜しんで列車の走っていくのを追っていきます。

四三は、その期待に応えようと精一杯の声を張り上げ、こちらまでウルッときてしまいました。

黄色い声援

天狗倶楽部の覇王と言われている三島弥彦は、スポーツ万能で、何をやっても目立つ活躍に、”ハイカラさん”たちが黄色い声援を上げています。

今も昔も変わらないんですね。

三島家は、元は薩摩藩の士族で、父の三島通庸は元警視総監、兄の弥太郎は、横浜正金銀行の福頭取で、のちの日銀総裁。母の和歌子は、女西郷と呼ばれる女傑!

お坊ちゃまな弥彦は、四三さんとは、何もかも対照的な人です。

この家族をモデルにして書かれた小説「不如帰」を女中のシマに、字の読めない和歌子に代わって読むようにと指示します。

和歌子さんは、その小説で底意地悪い姑として描かれているのですが、それを女中のシマは気遣って、”心優しいお姑さんに手厚く看病され何不自由なく暮らしました”それを聞いた、和歌子さんは、満足気な表情を浮かべますが、シマさん、戦々恐々で、おかわいそうに、、、

嘉納治五郎先生と対面

東京高等師範学校の入学式、子供の頃抱っこしてもらえなかった先生が、入学式のあいさつを自分の目の前でしてくれるなんて、自分一人ではもったいないと思ったのでしょう。

四三はその感激を兄たちに手紙でしたためます。

東京でのいろいろな出来事を手紙で伝え、実次は、そんな四三からの手紙が、とてもうれしいのでしょう。

手紙を読み上げると、村から出たことのない子供たちは、目を輝かせながら聞き入りますが、生き生きしていてかわいいです。

恋バナ

夏、熊本に帰省した四三は、川で水浴びをしていると、スヤが現れます。

四三は、自分の東京での数々の体験を話しますが、スヤはうれしそうに耳を傾けています。

四三は、スヤに教わった自転車節のおかげで、だいぶ音痴を克服したと言って歌いだしますが、純朴な四三さんの変わらない姿に、スヤは安心したと思います。

ところが、夕食時に、母のシエからスヤが女学校を出たら、見合いをすると聞いた四三は、淡い恋心を砕かれたのか、表情が固くなりますが、それを隠そうと明るく振る舞います。

せっかく帰省したのに、早々に恋心を打ち砕かれ、気落ちする四三さん切ないですね~

夏休みが終わり、家族の見送りもなく寂しく列車で東京へ向かうと、なんとスヤが袴姿で列車に追いつこうと、自転車で猛スピードでこいできました!

これには、四三さん、うれしかったでしょうね!

元気よく、猛スピードで自転車をこいでいるスヤに応えようと、手を振ります。

鮮やかな緑の中で、女学生のスヤさんと四三さんのこの恋は、どうなるのでしょう。

色気づく美川

家族の期待を一身に受けている四三は、まじめに勉学に励もうとしていますが、友人の美川は、東京に出てきたのだから、勉学以外のことも、いろいろ経験したいようです。

当時一番の繁華街の浅草へ四三さんを連れ立っていきますが、純朴な四三さんは苦手な様子です。

そこへ天狗倶楽部がマラソン大会をしているところに出くわしますが、これまで四三さんにとって、走ることは移動の手段でしかありません。

マラソンを目にしたことがない四三さんは、なんのために走っているのか、わからなかったのですが、実次「ひとかどの者になるなら、何か熱中しろ」スヤ「四三さんの思うようにしたら、いいじゃない」そんな言葉を思い起こします。

四三さんの中に、なにかが芽生え始めたようです。

一方の美川さんは吉原に行ったことが、どうしたことかバレ、バツとして肋木にぶら下がっています。

四三さんには、美川さんの行動は、まるで異次元のものに思えたのでしょう。

それよりも、美川の肋木にぶら下がった足の向こうに「マラソン」の文字を目にした四三さんは、その文字に釘づけになります。

四三さんの中で、何かが、はじけようとする瞬間です。

ようやく四三さんの人生が動き出そうとしています。

~コラム~

オリンピックを東京に招致する意義とは?
当時、東京市はオリンピック招致運動を国内でも進めていくこととなった。

1932年(昭和7年)7月28日、「国際オリムピック競技大会に関する実行委員会」を設置する決議を東京市は行った。その中で市長である永田秀次郎はオリンピックを招致する意義を述べている。

具体的にはIOCへ提出した第12回オリンピック大会の正式な招請状の中にその意義が示されている。一つは、西洋で近代競技として活発化している大会を東京で行うことでその理念が東京文化へと普及することを狙ったのである。

そしてもう一つが、日本帝国建国2600年を記念する年が1940年と自然に符合することにあった。2600年の歴史を持つ日本の文化がオリンピックを迎合することで、よりオリンピック大会が盛況に行われる可能性を示唆し、その意義を述べたのである。

【筆者のコメント】
永田氏が特段、東京大会を招致することに力を入れた意義は、これまでアジア圏で行われなかったオリンピックに日本がかかわることで大会がさらに飛躍すること、そして、紀元2600年への記念にあったのですね。

オリンピック招致へ!高まる国民からの関心

1932年のロサンゼルス大会が行われる頃になると、政府の態度も緩和され、招致活動に前向きになってきた。その表れは例えば、選手派遣に関する政府支出の補助金の額が6万円から10万円への4万円という増額にも表れている。

また、天皇から全日本体育協会に対して「御下賜金」として、1万円が贈呈された。そればかりではない。国民からのオリンピックへの関心も高まっていったのだ。東京市長永田を会長として組織されたオリンピック後援会へは、全国からのべ21万4858円93銭もの寄付がされた。

さらにアメリカに設立された東京オリンピック後援会に対しても2万円もの寄付金が集まったのだ。政府、国民、そして在外する法人からのオリンピックへの期待が高まっていった。そして、国内ではオリンピックの招致運動が過熱していくこととなった。

【筆者のコメント】
招致活動に不可欠だともいえる政府がロサンゼルス大会を機に、ついに動き出しました。また国内でも関心が高まり、招致活動は進んでいくようになりました。

オリンピックを日本に!国を挙げてのラトゥールの歓迎
1936年、日本にとってIOC会長アンリ・ド・バイエ=ラトゥール伯爵(ベルギー人)の訪日は招致活動に付随してとても重要な意義を担っていた。そのため、出迎えに当たっては東京駅に市長の牛塚虎太郎、IOC委員の嘉納秀次郎、全日本体育協会副会長の平沼亮三が集まり、「ラトゥール伯万歳!」の声援で出迎えた。

ラトゥールの滞在は22日間に及び、競技施設の訪問や小学校の授業参観、デパート見物や歌舞伎の観覧など、ありとあらゆる日本文化を堪能した。また、宮中にも招かれる事態にまで発展した。さらにラトゥールへの心証を良くするために、相性の良くない杉村をIOC委員から外し招致委員会会長の徳川家達を推薦することとなった。

日本のもてなしが功を奏し、ラトゥールは反日から親日へと態度を変えた。地理的に欧米各国とは距離があるものの、神宮競技場などの施設面、国民のオリンピック熱も申し分ないものとし、日本を好意的に評価したのである。

【筆者のコメント】
ラトゥールの意向によって書くIOC委員の態度の変化が予測されました。そのため、日本は宮中をも巻き込んでラトゥールへの接待へと打って出たのでした。

オリンピックはベルリンからトウキョウへ

1936年8月16日、全ての競技を終え、ベルリン大会は閉会式へと移った。場所はグリューネヴァルトのメインスタジアムである。選手団が入場を終えるとラトゥール会長の閉幕の宣言が行われた。その後、オリンピック旗が下されオリンピックの鐘の音が高らかに鳴り響き、聖火が消された。

スタジアムの掲示板には、「ベルリン1936、アテネ1868、トウキョウ1940」の表示が灯された。さらに、真ん中にギリシャの国旗、左側にドイツの国旗、右側に日本の国旗が掲げられた。そう、ベルリンから東京へと大会が引き継がれるのだ。

日本選手団長として参加していた平沼が、「全世界のみなさん、東京オリンピックにどうぞ!」というスピーチをすると、見守っていた観衆は「トウキョウ!」と声を合わせ高らかに叫んだ。次のオリンピックは、間違いなく東京で開催されるのである。

【筆者のコメント】
東京開催決定までは紆余曲折ありましたが、ベルリンのスタジアムで東京の表示を見ると、次は東京開催だ!ということを実感できたでしょうね。

オリンピック準備は存続するのか?政府の意向はいかに

陸軍による、馬術競技の準備中止を受けて、IOC委員の副島道正は、オリンピック返上について考えるようになる。例えば、1937年8月26日の都新聞夕刊に副島のコラムが刑されている。内容は、日中間の戦局によっては、オリンピックの開催そのものも考え直さなければならないというものだった。

確かに、大会開催に当たって政府の援助が必要である。そこで副島は、近衛文麿首相との面会の場を設けた。その中で500万円の予算補助を求めたいこと、これができないのであれば、大会の返上も視野に入れなければならないと近衛に訴えた。

その後補助金の増額案は審議にかけられたが内相馬場鍈一による反対のため認められなかった。さらに、副島の行動は「日本がオリンピックを返上するのではないか」という噂を呼び起こすこととなり、海外にまで報道されることとなった。

【筆者のコメント】
副島氏は、あくまで戦争は戦争、オリンピックはオリンピックという区分けのもと近衛首相への面会を行っています。ですが、外見的には返上の可能性が大きく取り上げられることとなりました。

<<前回第2話 | 次回第4話>>

スポンサドーリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました