いだてんあらすじネタバレ第4話感想 / 大森安仁子モデル誰?21歳差年の差婚!脂抜き走法「小便小僧」

いだてん ネタバレ 38話(10/6)古今亭志ん生ビートたけし脳出血「長いお別れ」 いだてん

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2019年1月27日(日)

あらすじ

明治43年10月、東京高等師範学校の恒例の「秋の長距離競走会」の日がやってきました。

ところがレース直前に、用をたしたくなり、立小便をしているうちに、スタートの号砲がなり、いきなり出遅れます。

四三は、「すっすっ、はっはっ」と呼吸法で、ごぼう抜きをして3位となります。しかも表彰式では、憧れの嘉納治五郎に声をかけられてさらに発奮し、無茶な練習を敢行します。

その頃の嘉納は日本初のオリンピック予選開催を前に、山積する難題に頭を抱えていました。頼みの綱だった三島弥彦は当てになりません。

昭和35年、志ん生は嘉納の苦労話を弟子の五りんに語るうちに酒を飲んで、ほろ酔い加減で、そのまま高座へ上がった志ん生が話す噺とは。

参考:Yahoo!テレビ

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大森安仁子

大森兵蔵の妻、シャーロット・ ケイト・フォックスさん演ずる大森安仁子についてご紹介します。

生年月日:1856年~1943年、
旧名:Annie Shepley

アニーはニューヨークで画家ハリー・シドンズ・モウブレーに師事し、パリのアカデミー・ジュリアンで学び、帰国後、肖像画家として活動します。

スタンフォード大学を卒業した大森兵蔵と、1907年10月1日、結婚し、来日して帰化します。

アニー51歳、大森30歳でした。
いだてんあらすじネタバレ第4話感想 / 大森安仁子モデル誰?21歳差年の差婚!脂抜き走法「小便小僧」
引用元:https://www.gllc.or.jp/profile/history/index.html

夫とともに私財を投じ、淀橋区(現東京都新宿区)社会福祉施設・有隣園を設立し、夫が亡き後もその運営を続ける一方、日本の古典文学、紫式部日記、和泉式部、更級日記などの翻訳も手掛けます。

脂抜き走法とは

脂抜き走法とは、明治から大正にかけて長距離走者の圧倒的な支持を受けていた練習法で、できるだけ汗をかいて体内の水分を出し、体を軽くして走るというものです。

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感想

立小便、、、

四三さんにとって走ることは、移動の手段でしかなかったのですが、人と競争することを覚えました。

きっとワクワクする瞬間だったと思いますが、走り出す直前になり、生理現象が始まってしまいます!

確かに緊張のあまり、トイレに行きたくなることあります。

四三さんにとっては、初めてのことだったので、余計に、もよおしてしまったのでしょう。

そのことで出遅れてしまいますが、なんとかみんなに追いつきますが、今度はわらじがダメになってしまうなんて、なんとついてない日なんでしょう。

はだしで走るなんて、砂利道とか痛そうですが、それにもめげず3位になれるのですから、やはり実力があるんですね。

そして四三さんには、子供のころからあこがれていた、嘉納治五郎先生から「君は予科か?」と面と向かって聞かれて、「はい」としか応えられません。

四三さんには、初めてのことばかりで、感動の大きな一日だったことでしょう。

それにしても、金持ちボンボンの三島弥彦とは、ずいぶん対照的ですね。

弥彦は、車に乗ってさっそうと振る舞いますが、経験値もモノもすべてに余裕があります。

たびを見つける

いくらなんでも、はだしで走るのは、キツイと思いますが、今のような運動靴がなかったというのですから困ったものです。

田舎から出てきて、上等な靴を買うお金もありません。

どうしたものかと思っていると、たび屋さんを見つけます。

まだ、わらじよりもたびの方が足にはやさしいでしょう。

四三さん、たびを履いて、その履き心地がうれしそうです。

大森兵蔵とアニコ

大森兵蔵なる人物が西洋人の女性と現れますが、ずいぶんアメリカンナイズされて、やたら横文字を使っています。

ですが、この大森は、バスケットボールとバレーボールを日本に初めて紹介した人なんだそうです。

嘉納治五郎先生は、日本の教育のためと言って、私財を投げ打ってまでも、公に尽くそうとしていますが、この大森も、のちに私財を投じて社会福祉施設を作っているんです。

こういう豪胆な人って、いたんですね。

コラム

オリンピック誘致に動いた、永田市長の人間味とは?

東京市の市長というと、エリートが就任するもの、政治的にも対外的にもそん色がない人が選ばれるイメージがある。確かに、オリンピック招致を決定した当時の東京市長永田秀次郎も名家出身のエリートであることに変わりはない。

ところが、彼には、人間の面白味というものが多分にある。例えば、俳人である一面である。自ら「青嵐」と号し、三高(現在の京都大学教養学部)に通っていたころから俳句を始めた。その後50年に及び俳諧で活躍し、俳句雑誌である「ホトトギス」にもたびたび登場していた。

また、スピーチをさせても、視聴者の心を惹きつける技が散りばめられていて、聞くものを自らの世界へ引きずり込んだ。さらに、釣りにも精通している多趣味な人物であった。この親しみやすさが市民からの好感を得て、名物市長として愛されていた。

【筆者のコメント】
オリンピック大会という当時の日本では斬新な国際大会を招致するアイデアを取り入れ、それが市民の間に受け入れられたのも、永田氏の人徳によるものかもしれませんね。

ギリシャと東京を結ぶ聖火リレー計画

オリンピックと言えば印象的なのが聖火リレーだ。実は聖火リレーは、ベルリン大会で始まったものであり、現在へと引き継がれているのである。当時は交通事情も整っていなかったことから、聖火リレーも壮大な計画が立てられていた。

まず問題となったのが、ギリシャから東京へ聖火を運ぶ方法である。これについては、ベルリン大会の組織委員会事務総長カール・ディームがすでに案を考えていた。その計画はオリンピアの神殿跡にて採火し、南アジアから東京までリレーでつなげるものだった。

ディームは探検家であるスヴェン・ヘディンに相談を持ちかけた。その結果、オリンピアからアテネ、ペルシャ、ヒマラヤ、チベット、ベトナム、中国、そして日本入りし、東京へ向かうルートが想定された。ヨーロッパとアジアを結ぶ聖火の存在にスヴェンは心を輝かせていたのだった。

【筆者のコメント】
スヴェン氏は50年にわたりアジアへの想いを持っていました。広大なユーラシア大陸を横断する聖火リレーは、スヴェン氏にとって、夢を叶えてくれる理想の計画だったようです。

クーベルタンとムッソリーニによる日本の支持

第2代IOC会長をつとめ、各国スポーツ界においても力を有していたフランスのピエール・ド・クーベルタン男爵は、1940年東京招致に前向きの態度を見せる。オスロ大会前に東京市が日本の景勝地や産業、スポーツ施設などを示す写真集を発行、これをクーベルタンや各IOC委員へと送付したのである。

これに感謝の意を表すべく、1935年2月、クーベルタンはジュネーブ駐在日本総領事館を訪れた。その際、次回総会で必ず日本に決定するよう働きかける旨を誓ったのである。イタリアのムッソリーニ首相も大使杉村宛に第12回のローマ辞退、そして日本への支持を表明した。

ローマの辞退にあたっては当時戦火が増しており日本による支持への期待もあったのだ。かくして、IOCの大御所クーベルタンの支持と、ライバル候補地ローマの辞退という、東京招致にとってはポジティブな条件が揃うこととなった。

【筆者のコメント】
オリンピック開催に当たっては、欧州で激化していた戦争問題もかかわってくるようになりました。そんな中でのローマの辞退は日本にとって東京招致の可能性を高め招致チームの活動意欲へと繋がったことでしょう。

ついに競技種目の決定!20種目で進めることに

競技として行われる種目選定は、1937年6月7日から開催されたIOCワルシャワ総会で決定した。この総会の中では、日本国内での対立やオリンピックの政治目的での利用がささやかれたことで開催権の取り消しが問題となったが、ラトゥール会長の擁護によって回避されることとなった。

そして審議は大会での実施競技選定に移った。最終決定したのは、公式種目からは、14種目、選択種目からは4種目の選定、さらに武道と野球がオープン種目に決定した。除外を提案していた射撃、近代五種競技、フェンシングはどれも存続することとなった。

結果的には、陸上、水泳、体操、レスリング、自転車、馬術、フェンシング、近代五種競技、ボート、射撃、ウェイトリフティング、ボクシング、ヨット、芸術、そしてサッカー、ホッケー、水球、バスケットボールの18種目、武道、野球に決まったのである。さらに、会期についても決定し、1940年8月の最終週から9月の第1週にて開催されることが確認された。

【筆者のコメント】
日本が示していた公式種目の除外は叶いませんでしたが、新たに武道と野球が追加され、さらにオリンピックへの期待が広まりました。

ついに迎えた投票日、想定外の延期が決まる

1935年3月1日オスロ総会にて1940年開催都市の投票が始まろうとしていた。この投票に先立ち、イタリア委員を務めていたボナコッサが、イタリアが自己の責任において立候補を撤回する旨を述べた。杉村とボナコッサが約束した辞退声明の発表とは異なるが、確かにイタリアの立候補撤回が行われたのだ。

ところが、総会欠席者の間においてはローマ立候補を含意のもと、すでに34票の投票が行われていた。さらにラトゥール会長は、政治的な圧迫によって委員会の議決が変わってしまうのは、IOCの独立性が害されると付言した。

その結果、第12回オリンピックの開催地決定の投票は1936年に行われる次回総会まで延期することとなった。ラトゥールは第13回大会で東京を候補国として挙げる旨語ったが、杉村は紀元2600年にあたる1940年以外は希望しないと強く断じたのである。

【筆者のコメント】
ムッソリーニの自発的な辞退の確約がIOC側には政治的な圧迫と取られたようです。突然の投票延期に、再び招致活動が始まりました。

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