いだてん7話乃木希典あらすじとネタバレ!2月17日「おかしな二人」感想

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2019年2月17日(日)

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あらすじ

治五郎の口車にのせられて自費で渡航費を用意しなければならない四三さんは、兄の実次にわらにもすがる気持ちで援助を求める手紙を出します。

ストックホルムまで、あと3か月とうのに兄からの返事はありません。

しばらくすると、四三さんのもとに、兄からの手紙が来ます。

そこには、「お前は、とつけむにゃあ男たい。」田畑を売ってでも金を工面するとあります。
明治45年(1912年)2月、いよいよオリンピックのエントリーフォームに名を連ねる四三と弥彦は、正式なオリンピックの出場選手になりました。

ストックホルムへは、2週間かけてシベリア鉄道で向かい、治五郎のほかに、二人の同行者がつきます。

弥彦の豪邸で、安仁子から英会話と洋風のマナーを学びながら、四三は、三島家の冷めた親子関係を感じ取ります。いっこうに兄からの便りがなく困り果てる四三。そんな時、目の前に現れたのは、日露戦争の悲劇の将軍・乃木希典(のぎまれすけ)大将でした。
参考:Yahoo!テレビ

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乃木希典

四三さんにとって三島弥彦の存在は、別世界の人物すぎて、ライバルなどみじんも思っていないと思います。

ストックホルムへ行くことが決まり、三島家で食事マナーを教わりに行くと、見たこともないような世界に圧倒され、緊張のあまりトイレに向かうと、そこには、日露戦争の悲劇の将軍・乃木希典(のぎまれすけ)大将がいました。

この時、乃木将軍は63歳です。

笑うしかないような展開になりそう。

ここで乃木希典大将について、ざっとご紹介します。

生年月日:嘉永2年11月11日(1849年12月25日)~1912年(大正元年)9月13日

出身地:江戸の長府藩上屋敷(毛利甲斐守邸跡、現在は六本木ヒルズ内の毛利庭園(もうりていえん))

長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木希次(馬廻、80石)と壽子(ひさこ)との三男として生まれます。

武士(長府藩士)、軍人、教育者として活躍します。

明治10年(1877年)西南戦争では、西郷軍との戦いで負傷入院となり前線から退き久留米の軍団病院に入院しますが、乃木は3月19日に病院を脱走し前線に復帰。

翌20日には田原坂は陥落し乃木は21日に第一旅団参謀兼務を命じられます。その後も乃木は、部下の制止を振り切って連隊を指揮し、重傷を負うと、再び野戦病院に入院しますが、なお脱走して戦地に赴こうとしたために「脱走将校」の異名をとります。

日露戦争における旅順攻囲戦の指揮をとります。

明治天皇の後を慕って殉死したことで国際的にも著名です。

階級は陸軍大将、栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵

第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係も務めます。

感想

田畑を売ってでも
今回も、四三さんの純朴な姿がおかしくもあり、ウルウルとされられたり充実した時間でした。

四三さんのマラソンの活躍ぶりが新聞に掲載され、熊本の金栗家では、みんな喜びます。

何にもない地方の家から、新聞に掲載されるほどになるとは、さぞかし驚いたと思います。

四三さんのために、兄が頑張って上京させただけありますが、この時点で、ウルウルきてしまいました。

それにしても、四三さんにとっては、走ることはただの日常生活の一部でしかありませんでしたが、世界中の若者が集まって競うオリンピックに出ることになった四三さんにとって、毎日が山あり谷ありの日々になってしまいます。

他の学生には、経験のできないことですが、四三さんとしては戸惑いの方が多く、見ていておかしいやら気の毒やら。

オリンピックに出場して走ることよりも、それ以外の部分で苦労が多く、周りの学友たちもうらやましいよりも、複雑な思いを抱えているようです。

嘉納治五郎先生個人は、今で言うと数億円の借金を抱えますが、四三さんは自費で、今だったら数千万円くらいかな?用意しなければオリンピックに出場できません。

兄は、田畑を売ってお金を工面すると言いますが、とてもそれだけで工面できるとは思えません。

兄は、スヤの家に行って、お金をなんとかしようとすると、スヤは機転を利かして、スヤの見合い相手の池部家に出向きます。

四三さんのオリンピック出場のために、これほどみんなの支援により、実現したのかと思うと、それだけで胸が熱くなります。

クジャクになぎなた!
マナーを習いに三島家を訪ねた四三さんの前に、突如として現れたのが、あでやかな色の羽を広げたクジャクです!!!

これっ、これは四三さんでなくとも、ビックリでしょう、、、、

クジャクなんて、動物園でしか見たことないのに、家で飼うような代物なんでしょうか?

驚いているそばから、三島和歌子がなぎなたを振りかざしてきて、なぎなたも怖いけれど、三島和歌子の形相が怖すぎる!

いったい、四三さんは何をしでかしたのかと思ってしまいます。

そこへ大らかに、三島弥彦が「金栗く~ん!」

「なんなんだ、この落差は!」

と四三さんは、思ったと思いますが、これは序章でした。

三島家の豪邸のダイニングテーブルにつくと、弥彦「趣味は?」

四三さん「シュミ?」

弥彦「僕は、キャメラだよ」

もう笑っちゃいます。

四三さん可哀そう

財閥のお奥さまって、こんな風だったのかわかりませんけれど、どうしてああも三島和歌子は、冷たいというかキツイんでしょう。

弥彦に「母は、薩摩人なんだ」と言われ、親しみを感じた四三さんは、三島和歌子に近寄ろうとすると、「意味のない長い話、まだ続けるのか」

怖~い

四三さん、可哀そうすぎる。

シンデレラ姫を思い出してしまった。

意気消沈した四三さんが、かわらにいると、「サーベル」があります!

「サーベル」なんて、ふつうの生活で見るような代物じゃありません。

どこまで史実なのかわかりませんが、乃木希典大将がいるじゃないですか!

四三さんの驚きに、笑っちゃいますが、エピソードのインパクトがすごくて食事のマナーのことなんて、どうでも良かったです。

切ない

兄からの一向に、お金の連絡が来ない四三さんは、思い余って、身の回りのモノを売ってお金をなんとかしようと考えますが、とてもとても、そんな四三さんの身の回りのモノでは、二束三文にしかならないです。

ほんとに純朴なんでしょうが、見ていて切なくなりますが、美川は大人でした。

「校長に直談判すべきだ」

まさしく。

治五郎先生の親心
四三さんは、治五郎先生に直談判しようと校長室へ行くと、「私は、10万の男だ!」治五郎先生の大きな声が聞こえてきます。

それだけでも、引いちゃいそう。

お腹がヒクヒク状態です。

治五郎先生は「武士は食わねど高楊枝」の人です。

どんなに借金があろうとも、他者の幸せのために、成し遂げようとします。

とは言え、治五郎先生の借金は、尋常じゃない額になっています。

治五郎先生は、すっかり開き直って自分が欧米に視察に行った29歳の時、はなむけにと勝海舟が譲ってくれたコートを、四三さんのために質屋に入れ、そのお金でフロックコートを用立ててくれました。

そのコートを着て、三島家で写真を撮ってもらってと、ほんとうなら誇らしいことなのかもしれませんが、田舎では、フロックコートどころか、草鞋を編んでいます。

そんな落差にもまれながらも、四三さんは必至に、オリンピック出場のためのマナーを学ぼうとしますが、扱いになれないフォークとナイフがすべって、ムール貝の中身が、三島和歌子の顔に!

三島和歌子の顔が、ホラー映画レベルで怖すぎる!!!

お兄さんが!
四三さんなりに、毎日せっせと一生懸命にやっていると、お兄さんが上京したではありませんか!

しかも「1800円持ってきた」

何はともあれ、良かった~

コラム

ライバル、ローマとヘルシンキの演説内容とは?

オスロ大会ではローマは、元々有力な都市であり、政府はスポーツ界に干渉してはならないこと、ムッソリーニの立候補辞退の公約は無効であることを示した。また、各国選手ら関係者はイタリア国内での旅行を無料にすると付言した。

フィンランドは、自国も日本やイタリアとともに スポーツ大国であること、オリンピックはスポーツ的な見地から開催地を検討すべきだと述べた。大会の開催資金は政府の援助があること、宿泊施設には小学校の校舎に加え船を用いるとの案が出された。

有名選手がたくさんいるフィンランドはスポーツ大国であり、票集めにも安心感があった。特にバルト三国、スカンジナビア票がフィンランドに入る予想が立てられた。日本にとって強力なライバルはローマだけでなくフィンランド両国だったのだ。

【筆者のコメント】
日本がハンデを解消する方法を模索したように、イタリア、フィンランドもともに自国の優位性を説きました。IOCの最終決定が気になるところですね。

ライバル、ローマの辞退はムッソリーニの協力の下に

1940年の強力なライバル地として名が挙がっていたのがローマだ。ヨーロッパを中心に大会が開かれており、ローマはまさにヨーロッパの中心地であることから地理的な面でも有利であった。競技場もすでに完成間近ということもあり、東京よりも格段にローマ開催の可能性が高かったのだ。

そこで、IOC委員の杉村陽太郎が動いた。杉村は1934年秋、イタリア大使としてイタリアに滞在していた。この地位を利用しない手はない、岸の後継となったIOC委員副島道正と共に杉村はイタリア首相ムッソリーニへの面会を求めることとなった。

しかし、副島は高熱を出し、面会を欠席してしまった。それでもなおムッソリーニに合おうとする副島にムッソリーニは心を打たれた。ムッソリーニはイタリアの委員ボナコッサに辞退を求め、結果としてイタリアも東京開催の支持国となるのであった。

【筆者のコメント】
日本にとって最大のライバルともいえるイタリアを説得した副島氏の執念はすごいものがありますね。副島氏の活躍によってローマの辞退が決まったのですね。

ライバルは9都市、IOC委員、岸清一の予測はいかに

1932年7月28日、IOCロサンゼルス総会が開かれた。会議の2日目となる29日には東京市長永田秀次郎が記した大会招請状をスポーツ界の大御所嘉納治五郎が提出、IOC委員であった岸清一がこれに補足を加え、1940年のオリンピック東京招致を求めた。

日本のほかに立候補を表明したのは、ローマ、ヘルシンキ、バルセロナ、ブタペスト、ダブリン、アレキサンドリア、ブエノスアイレス、リオデジャネイロ、トロントの9か国だった。これらの表明に対し、日本から何度も親善派遣をしていたエドストロームは東京に賛同の意を述べている。

有力な9都市の立候補に、IOC委員でもある岸は悲観的な予測を立てた。ライバルは10年以上にわたり招致に向けて活動しており、特にローマは競技場も新設されており有力である。そのため日本の招致は不利であるとの予測であったのだ。

【筆者のコメント】
岸はIOC委員も務めていることから、世界各国の誘致状況が手に取るように分かりました。その中で後発的な日本の立候補には不安があったのかもしれませんね。しかし、最終的にはこの岸の予測を覆す結果が訪れます。

ラジオで中継されたロサンゼルス大会
ロサンゼルス大会が行われた1932年、当時はラジオが普及しており、大会の中継はラジオを通じて行われた。とはいえ、現在でいう実況放送ではなくあくまで「実感放送」という形式だった。つまり、アナウンサーが協議を観戦、その模様を現地の放送局から再現して伝えるものであった。

では、どうして中継放送ができなかったのか。それは米オリンピック委員会とナショナル放送会社との実況中継をめぐる対立によるものであった。もちろん、このような実感放送であっても、国民たちは選手たちの活躍を知る手段として大いに喜んだ。

新聞では、撮影済みのフィルムを客船に載せ、航空機がその容器を船から吊り上げて新聞社に送るという輸送法が取られた。今となっては原始的だが、データを送る技術がなかった当時においてはこれが最速の方法だったのである。

【筆者のコメント】
選手団の活躍を期待する国民にとって、ラジオでの実感放送は心待ちにするものであり、多くの国民が楽しんだようです。

ラトゥールの東京支持にイギリスが動いた

突如として1940年大会に立候補を名乗り出たことで、元貴族院議員の副島道正はロンドン市長のバーシー・ビンセントへ面会を求めた。その上で、立候補を撤回するよう促したが、ビンセントはこれを覆すことはなかった。その後、副島はイギリス内のオリンピック関係者を巡ったが事態は好転しなかった。

ロンドンの立候補によってイギリス領土となっている地域の票までもが失われてしまう。日本は苦慮したのであるが、そこへIOC会長のラトゥールが動いた。なんと事を聞きつけてラトゥール自らロンドンへ向かったのだ。そして、東京開催を支持する意向を示した。

これを受けて、英国オリンピック委員会の会長ロード・アバーデアは、ベルリンIOC総会においてイギリスが日本の不利になるような行動をしないと表明した。ラトゥールの口添えのおかげで、東京開催決定の危機を乗り切ったのである。

【筆者のコメント】
ツルの一声ともいえるラトゥール氏の東京支持の意向は、立候補したてのイギリスの意思も変えるものでした。招致問題は、これで一安心できそうですね。

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