いだてん8話綾瀬はるかが結婚!あらすじとネタバレ!2月24日「敵は幾万」感想

いだてん おりん役モデル実在?若い頃の女優夏帆(かほ)年齢や結婚? いだてん

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2019年2月24日(日)

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あらすじ

大金を携えて上京してきた兄・実次から、春野スヤの働きかけでスヤの婚約者の池部家を訪れ、田畑を池部家が1800円で買って、その田畑を金栗家にタダで貸すというのです。

池部家の他にも、スヤの父・春野医師や玉名中学校の校長も四三さんへ餞別を実次に託し、資金を得られたと知る四三。

スヤと無邪気に野山を駆けていた自分が、オリンピックのために海を渡る不思議さを感じつつ、兄に一生懸命戦う事を誓います。

四三の壮行会が開かれる頃、スヤは熊本で嫁入りをする。

大勢の人々の「敵は幾万」の歌に送られ、出発する四三と弥彦。

まさに汽車が動こうとした時、弥彦の名を叫ぶ声がする―。

参考:Yahoo!テレビ

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いだてん8話綾瀬はるかが結婚!

四三さんがストックホルムオリンピック出場するための資金繰りに、兄の実次は、奔走しますが、それを手助けしてくれたのがスヤです。

自分の婚約者である池部家を訪れ、重行に相談すると、重行の母幾江により、資金を工面することができました。

実次から、なんとか資金を得られた四三さんですが、その頼み先が、スヤさんの婚約者の家だと知る四三さん。

もろくも四三さんとスヤの淡い恋は、いったん消えることになります。

四三さんは、スヤへの思いがあっても、どうすることもできず、それよりもみんなの大きな期待に応えられるように、オリンピック出場へ向けて練習に励まなければなりません。

スヤは、婚約者と祝言をあげることになりますが、だいぶ後になって、あっと驚く展開になります。

二人の運命は、これで終わりません。

感想

みんないい人たち

四三さんのお兄さんが、はるばる熊本からお金を持ってやってきてくれるなんて、良かったです。

今のようにATMに振り込んでくれるような、そんな仕組みはありません。

真っ赤な毛布をマント仕立てにして、いなかっぺ丸出しですが、そんなことはどうでもいいことです。

1800円もの大金を工面して現金で持ってきてくれるなんて、命がけです。

数千万円の現金を持って、旅行なんて行けないです。

兄の実次さんは、スヤの許嫁のところへ行って、頭を下げて田畑と引き換えに、やっとの思いで集めましたが、弟のことを思うが故にとは言え、簡単にできることではないです。

四三さんのお兄さんにとっては、生活の糧を差し出すのですから、一つ間違えればギャンブルみたいなものですが、ここで救いの神が現れます。

四三さんたちの同級生は、純朴で朴訥とした四三さんを陰ながら応援して、寄付金を募ってくれていたのです。

良かった~

もとはと言えば、美川が四三さんのお兄さんは、びた一文出さないと余計な一言によるものでしたが、結果的に人助けになったのですから、軽薄な美川と言えども、ラッキーな男です。

四三さんショック

お兄さんが工面してくれたお金の出所を聞くと、スヤの許嫁のところからで、熊本に戻ったら祝言だと聞いて、四三さん驚いたと思います。

東京へ戻ってくるとき、あんなに必死に自転車こいで追っかけてきてくれたスヤは、てっきり許嫁のことは、断ったのかと思ったのに、そうじゃなかったんです。

スヤの無邪気さに、期待したんじゃないかなと思うと、四三さんが気の毒。

とは言え、今や日本代表の四三さんは、みんなが味方してくれます。

足袋屋の辛作は、足袋ばかりでなく、ユニフォームまで仕立ててくれていたなんて!

辛作の子供の笑顔が、無邪気でかわいいですね。

いよいよ、ストックホルムへ旅立つ日まで2日となります!

簡単に海外へなど行ける時代ではありません。

今なら、飛行機で1日にくらいあれば、大概のところへは行けます。

シベリア鉄道に乗って大陸を渡って、また船に乗ってと、飛行機のない時代、ストックホルムへ行くだけで大変です。

そんなことより、みんなの期待を背負って旅立つのですから、これはもう盛大に壮行会を開いて、景気よく行きたいところです。

でも、ちょうど壮行会をやっているとき、スヤの祝言だなんて、これはつらいです。

胸の痛さを振り切るように、明るく元気にふるまう四三さん、見ていて切なくなってしまいました。

出発!

明治45年5月16日、嘉納治五郎先生が、勝海舟から仕立ててもらったフロックコートを質に入れて、それであつらえた洋服で出発です。

かたや三島弥彦は、カンカン帽に三つ揃えの粋なスタイルで、四三さんがやぼったく見えちゃいました。

こういうところで、差がついちゃうんですよね。

しかも”はいからさん”の黄色い声と天狗倶楽部による、派手な応援つきです。

これで出発と思いきや、息も絶え絶えに三島和歌子が、見送りに来ます。

やっぱり来ちゃいましたか。

みんな、それぞれに思いを抱えて応援してくれるのを、四三さんは黙って見守ります。

みんな今生の別れになるのではくらいの勢い。

新橋から寝台車に乗り、福井県敦賀で下りて、高山丸に乗ってウラジオストックに行きます。

そこから、シベリア鉄道に乗ること2週間!

ロシアの首都セントピータースバーグから、船でバルト海峡を渡りストックホルムへ着くのは6月2日!

冬のシベリアなんて、寒すぎて無理でしょうけれど、初夏だから、風景を楽しみつつも優雅な旅になるのかなと思います。

行けるだけで、十分、楽しいと思います。

みんなができないことを、いち早くできたのですから、四三さんはラッキーです。

ちなみにこちらの動画は、1916年当時の東京です。

カラー映像で蘇る東京の風景 Tokyo old revives in color

コラム

ラトゥール会長に誓った日本の確約

ラトゥールが日本に滞在、帰還する前に、全日本体育協会副会長の平沼亮三は、ラトゥールと共に覚書を交わした。その内容は以下のとおりである。1.役員選手に対して支給する補助金は東京市からの100万円と、それに50万円を加えた150万円とすること、

2.IOC委員の任命する技術顧問を組織委員会に採用すること、3.各選手の滞在中の食費と宿泊費は1日200ドル以下に抑えること、4.開会式の前15日間に加えて大会中については国際競技連盟役員に対し1日5ドルを支給すること

これらを明確な覚書としたのである。この具体的な内容からしてもラトゥールの意思は東京招致へと向いていたといえる。二・二六事件により国内での不安が広がっていたが、オリンピック開催の可能性だけが人々の心に明かりを灯していたのだった。

【筆者のコメント】
ラトゥール氏と平沼氏の覚書はすでに東京開催が決定したといえるほど具体的なものでした。この朗報を受けて、国民も再びオリンピックへと希望を持つことができました。

ラツール伯爵の訪日と東京支持への期待

1933年これまで東京市長として招致活動に専念してきた永田秀次郎がその職を去った。その後、新市長として牛塚虎太郎が就任した。彼は政界にも顔が広く、東京帝大でともに学んでいた広田弘毅外相に東京招致に対する協力を仰いだ。

そこで持ち上がったのがIOC委員として力のあるラトゥール委員に訪日を願い出るという計画だった。これに対し、外務省の天羽英二部長、有田八郎大使はラトゥールに対し訪日を持ちかけ、渡航費などが東京市から支払われた。

ラトゥールが訪日に当たっては東京市、大日本体育協会などが全面的に迎え入れ、待遇の良さに満足し、東京支持の意向を見せたのである。当初、訪日に当たっては、日本のイメージが悪くなるのではないかという消極論もあったが、実際にはラトゥールの日本に対するイメージは格段に良くなったのであった。

【筆者のコメント】
訪日に際し、副島IOC委員はライバル地フィンランドの公使との会談の機会を与えました。この対応に、ラトゥール氏はより一層副島氏の率いる東京に好感を持ったようです。

ラトゥール訪日直前にしての二・二六事件の発生

IOC会長ラトゥールの訪日間近に控えた1936年(昭和11年)2月26日、日本史に残る国内暴動が起きた。二・二六事件だ。当時、国内では国家改造を訴える青年たちが増え続けていた。そんな中、陸軍に所属する皇道派青年将校が蜂起したのである。

その結果、首相岡田啓介の義理の弟である、陸軍大佐の松尾伝蔵が岡田と取り間違えられ射殺された。さらに、蔵相の高橋是清、うち大臣の斎藤実、教育総監の渡辺錠太郎らが殺害された。この事件により、軍部大臣現役武官制が復活し、内閣に軍部の力が及ぶようになった。

国内の情勢が落ち着かない中、軍干渉の下、3月5日には広田弘毅に組閣命令が下った。これに伴い、東京招致の発端となった元東京市長永田秀次郎は拓務大臣としての地位に就いたが招致活動とは無縁の職務を行うのであった。この騒動によるラトゥール訪日への影響がささやかれたが、3月19日無事に訪日することとなる。

【筆者のコメント】
日本情勢が不安定になっている状態で、オリンピック招致活動も変化を遂げていきました。そんな中、ラトゥールが訪日したのですね。

ローマとヘルシンキ、1940年に向けて動き出す。

オスロ総会において1940年の開催地として東京が有力視されていた、しかし、そこには落とし穴があったのだ。1944年の候補地としてローマとヘルシンキそして、IOC本部のあるローザンヌが立候補をした。実は1944年はIOCの設立50周年にあたるため、ローザンヌでの開催が当確であったのだ。

さらに、IOC会長であったアンリ・ド・バイエ=ラトゥールは、オスロ大会では1940年の開催都市を決めるのみで、1944年の開催都市には言及しない旨を示した。これを受けて、1940年を辞退すると言っていたローマは反故し、1940年開催に意欲を燃やすこととなった。

さらに、ヘルシンキも1940年招致への意欲を見せた。つまり日本の独壇場かと思われた1940年は、直前に来て強力なライバルが2か国も増える結果となったのだ。この結果はすぐに杉村から東京市、そして大日本体育協会へと伝えられることとなった。

【筆者のコメント】
ムッソリーニの確約により1940年の招致を辞退すると言っていたローマですが、ここにきて再び招致の意を示しました。さらにヘルシンキが加わり、激戦が予想されることとなりました。

ローマの辞退!挙国一致の招致

IOCオスロ総会で1944年の大会開催地にローマを推薦することで1940年の開催地は東京に譲ると宣言したイタリア首相のムッソリーニ。その発言はすぐに新聞で伝えられた。招致チームはもとより、日本中の国民たちが歓声を上げたのである。

東京市会は、ムッソリーニと対談した副島道正と杉村陽太郎に電報を即座にうち、感謝の意を伝えた。さらに、政府も動き出す、当時の首相岡田啓介からも在外大公使、領事に対して、東京開催へ支持が得られるようにと訓令した。

スポーツ界の中心でもある大日本体育協会も東京開催についての陳情書を提出した。衆議院での貴族院でのオリンピック関連議案は経費補助費を含め、すべて賛成可決されるなど、まさに挙国一致での招致活動が行われたのである。

【筆者のコメント】
ローマの立候補辞退が日本に伝わると、一気に国内での招致運動も活発化していきました。招致チームのみならず、政治、スポーツ界と、まさに国を挙げての招致となったのですね。

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