三島弥彦とは?子孫や家系図は?妻や母は?三島由紀夫や生田斗真!川崎皇輝?

いだてん ネタバレ 38話(10/6)古今亭志ん生ビートたけし脳出血「長いお別れ」 いだてん

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NHKの大河ドラマ『いだてん』で、主役を食ってしまいそうな勢いの、生田斗真さん演ずる三島弥彦さんは、明治時代の超~エリートで、お兄さんは45歳で、日本銀行総裁に就任した三島弥太郎氏。

恵まれた環境で、ルックスのみならず、陸上短距離、ボートに水泳、柔道に相撲、スキー、スケートなどスポーツ万能。

明治の時代にあって、毎回天狗倶楽部と裸で派手な演出に、”はいからさん”たちの、黄色い声援がおかしいです。

熊本から上京して、ひたむきに人生を歩む金栗四三さんとは対照的な人物ですが、そんな三島弥彦について、まとめてみました。

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三島弥彦の経歴とプロフィール

三島 弥彦(みしま やひこ)

名前は、旧字体で彌彦になります。

生年月日:1886年(明治19年)2月23日~1954年(昭和29年)2月1日

出身地:東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)

日本初のオリンピック代表選手として1912年開催のストックホルムオリンピックに参加した。父は警視総監の三島通庸、兄に銀行家の三島彌太郎がいます。

妻は鍋島直柔の五女・文子

2歳のとき父が他界します。

学習院を経て東京帝国大学(現在の東京大学)法科に進学。

成人男性の平均身長が155cm前後だったころ、170cmの長身を誇ります。

学習院時代には野球部でエース兼主将、ボート部でも一軍選手になっており、東大時代にはスキーを修め、この他に柔道は二段、乗馬と相撲も行い、またスケートも大会に出場する程度には上手い。

また、選手としてだけではなく、審判も早慶戦で多く務めています。

1911年(明治44年)、陸上競技に夢中になりつつあった頃、スウェーデンのストックホルムで開かれる第5回国際オリンピック大会代表を決める「オリムピク大會予選競技会」が羽田運動場で挙行されることになり、審判委員として来場するよう要請がありました。その要請には答えませんでしたが、このようなイベントがあることを知り、元々スポーツが大好きであったから、来場のうえ外野で学友と観戦しようと決めていました。

ところが、「生来の好戦癖はムクムクと起って、到底ジッとして傍観しては居られぬ。久しく練習も絶えていたけれども、兎にも角にも交はって走って見やうという」という考えから飛び入り参加し、100m、400m、800mの各短距離徒競走で第一位、200mで第二位を獲得してしまいます。

予選会では、立高跳びや立幅跳びの優勝選手もいましたが、選手団をストックホルムまで送る予算の都合などもあり、マラソンおよび10000mに出場が予定された金栗四三と三島の二人が選手に選ばれます。

それから毎週土曜日、金栗と二人でアメリカ大使館書記官キルエソンより、陸上競技の様々な技法や心得を学んだことで記録が伸びました。

しかし三島は「『かけっこ』如きで洋行してよいものか」という迷いや、欧米人のスポーツショーに官立学校の生徒が派遣されると誤解した文部省の無理解に苦しめられますが、学友や帝大総長の励ましにより、卒業試験延期にしてでも、五輪に出場することを決めます。

1912年(明治45年)5月16日、家族や三島が所属していたスポーツ社交団体「天狗倶楽部」や野球試合で縁のある慶應義塾野球部のOB会である「東京倶楽部」のメンバーらが見送るなか、新橋駅(現・汐留貨物駅跡)からストックホルムへと旅立ちます。

1912年(明治45年)7月6日、旗手として開会式に登場します。

出場選手わずか2名のため、行列人数が非常に少なく蕭条の観があったが、かえって群集の同情をひいた、と日本人記者は報じている。

当日午後いよいよ短距離予選に出場しましたが、最初の100m予選でいきなりトップに1秒以上の差をつけられ敗退。スウェーデンではキルエソン書記官の助言を得ることもできないため、すっかり落ち込んでしまい、金栗に「金栗君。日本人にはやはり短距離は無理なようだ」と語っています。

つづく200m予選では、英米独3選手に敗れ最下位となってしまいます。400m予選は100m、200mで金メダルを取ったラルフ・クレイグ(アメリカ)が他選手に謙譲して棄権したこともあり、見事準決勝進出の権利を得たが、「右足の痛み激しきが為」棄権してしまいます。

近年の資料では「精神的肉体的困憊のため」あるいは「勝機無しと見たため」を理由に掲げるものの方が多い。

金栗の競技も終えると、嘉納団長、金栗と語らって4年後のベルリン大会での雪辱を誓い、閉会式を待たずに出国、次大会開催国であるドイツに向かいます。

ここでオリンピック会場などの視察をした後、砲丸や槍などの日本ではまだ知られていないスポーツ用品を買い込んで、翌年2月7日に帰国します。

そのベルリン大会が第一次世界大戦で中止となり、8年間の中断期間を経て1920年(大正9年)アントワープ大会が開催されたのですが、すでに彼は34歳とアスリートにしてはオリンピックに出場できるような肉体を失っていたためか、予選にも姿を見せませんでした。

1913年(大正2年)、帝大を卒業して兄の彌太郎のいる横浜正金銀行に入行。

サンフランシスコ、ロンドン、北京など世界各地の支店で勤務し、1939年(昭和14年)本店に戻り検査人に就任しています。

大学卒業以降はスポーツ界から全く退いており、1954年(昭和29年)2月1日、目黒区で死去するまでメディアに登場したことはほとんどありませんでした。

家族に対してもオリンピックのことを進んで話題にはせず、長男の妻のまり子によると「私が聞くまで五輪に出場したことさえ話さなかった。聞いたら”出たよ”とそれっきり」だったそうです。

三島弥彦の子孫や家系図は?

三島弥彦とは?子孫や家系図は?妻や母は?三島由紀夫や生田斗真!川崎皇輝?
三島弥彦の家系図をざっと見てみたいと思います。

ドラマの「いだてん」では、裕福なお坊ちゃまくらいに思っていたのですが、調べると、薩摩藩士で警視総監を務めた子爵三島通庸(みちつね)の五男として、父の三島通庸が51歳の時に生まれます。

Wikiを見ると、長男、次男は記載されていますが、三男、四男が抜けています。これは、三島通庸には妾がいて、妻妾同居だったそうなので、もしかすると、三男、四男は庶子かもしれません。

三島和歌子は、実子も妾の子も区別なく育てたそうです。

三島和歌子は、夫亡き後、三島家の采配を振るいますが、長男の弥太郎を大山巌の娘の大山信子と結婚させます。

信子の祖父の兄の子供が、西郷隆盛になります。

信子は、まもなく結核にかかりますが、当時、結核は不治の病とされたことから、大山家に引き取られ、協議離婚となります。

小説「不如意(ほととぎす)」に、結核になった嫁を追い出した非道な姑として描かれ、ベストセラーになります。

弥彦の姉の峰子は、大久保利通の次男・牧野伸顕に嫁いでできた娘が、吉田茂の嫁になります。

それにつらなるのが、第92代内閣総理大臣麻生太郎と、三笠宮寛仁親王に嫁がれた信子妃がおいでになられます。

妻や母は?

弥彦の妻は、佐賀藩鍋島家当主鍋島直柔の娘五女の文子になりますが、あまり詳しい情報はありません。

三島和歌子さんは、最初14歳で家督を継いだ兄により、鹿児島藩士の森岡家へ嫁ぎますが、兄の柴山龍五郎らが尊王攘夷運動の中で、「寺子屋事件」をおこし、災いが及ぶのを恐れた森岡家は、和歌子が不在中に離縁をして柴山家へ返します。

その後、三島通庸と結婚すると、薩摩藩の知政所会計奉行から、藩政改革が認められ、東京府の権参事に就任し、東京府の参事にまで出世をします。

幼くして一度嫁いだものの離縁させられ、2度目の結婚では、大出世を遂げる人と一緒になれましたが、気性がキツイのは、そんな背景があるからなのかなと思いました。

三島由紀夫?

三島弥彦で検索をすると、「三島由紀夫」の名前が出てきます。

家系図を見ればわかりますが、いわゆる遠戚と言うのだと思いますけれど、血はつながっていません。

「三島由紀夫」の本名は、平岡公威(ひらおか きみたけ)で、三島由紀夫の名前の由来は、国文学者の清水文雄と相談をして、同人合宿をした静岡にある修善寺への入口の駅名から「三島」とつけ、「由紀夫」は本人の案の「由紀雄」を一字修正したものです。

同じ三島姓は、まったくの偶然。

川崎皇輝?

ネットで、ジャニーズの「5忍者」のメンバー川崎皇輝が、三島弥彦の玄孫(やしゃご)と書き込みがあったので調べてみました。


川崎皇輝の父親は、ボートレーサーの川崎智幸選手ではとみられています。

川崎智幸選手の嫁は、元福井放送のアナウンサー三島美佳子さん。

黒田清子さん(元・紀宮内親王)の「ご学友」でもあります。

もし両親なら、三島弥彦ではなく、三島弥太郎の玄孫(やしゃご)になります。

名前が似ているので、まぎらわしいです。

参照元:wiki

日本初のオリンピック代表選手 三島弥彦 -伝記と史料ー (尚友ブックレット34)

コラム

故国愛による中南米説得行脚―フレッド和田―

中南米と日本とには距離的な隔たりが大きかったことから、日本に興味はあるものの、未訪問だというIOC委員が多かった。そこで、白羽の矢が立ったのがフレッド和田だった。和田は、ロサンゼルス在住ながら日本出身で中米委員として委嘱されていたのだ。

計画が立てられたのは、中南米の11か国、メキシコ、パナマ、キューバ、ベネズエラ、ペルー、ブラジル、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ、コロンビアだ。1959年3月29日から5月3日というわずか1か月ほどでの行脚が始まった。

実際にはメキシコ、ハバナ、ベネズエラ、ブラジル、アルゼンチン、チリ、ペルー、パナマ、コロンビアを和田は訪れた。時には自費をもってのもてなしをし、確実な根回しの下、それぞれの委員の票が確約された。中南米における9票以上獲得の可能性を高めたのだった。

【筆者のコメント】
アメリカ在住でありながら、デトロイトではなく、東京都の支援に活躍した和田氏は、日本人に対して格別の想いを寄せていました。各国を1か月弱で回った行動力には肝を抜かれますね。
国を挙げて行った、公徳心を高める運動
オリンピック大会が開かれると、世界各国の選手のみならず、その応援団も来日することになる。戦後、外国人との関係に隔たりがあった国民にとって求められたのが、公徳心を高める運動だった。つまり、国際大会を成功させるには、国民全体の変化が必要だったのである。

来日する外国人と国民とのトラブルを未然に防ぐため、文部省は、「外国人応対連絡協議会」を設置した。大会組織委員会は都民歓迎会を開き、都民が旅行者を優しく出迎え、街を美しくし、秩序を保つように心構えを申し合わせを行った。

国民も一丸となっての公徳心を高める運動は、アジア大会の盛況として結果を残した。開会式には8万人の人が観覧するなど、想定以上の国民が参加したのである。戦後初の国際大会を終え、日本における国際大会の運営能力を世界に示したのであった。
 
【筆者のコメント】
アジア大会開催にあたり、大会組織委員会と都との連携がうまくいかず、トラブルもあったようです。しかし、結果的に観客動員数も多く、外国人とのトラブルも大きなものはなく、成功に終わりました。
国家規模での招致運動、その具体案とは?

オリンピック準備委員会結成にあたり、政府は、積極的に招致運動を進めていった。1958年6月14日総理府が開いたスポーツ振興審議会では、政府内で「東京オリンピック招致対策委員会」の設置を計画しており、それに向けての懇談会開催が検討された。

また、大会における施設費については、国と都とが200億円ずつ支出する旨が決定した。これにより、競技場建設などの具体案が決まっていくのだ。さらに、「東京オリンピック招致実行委員会」を設立、会長には首相、副会長には文部相、東京都知事、体育協会会長、日本商工会頭取があたることとなった。

その後、10月14日には国民に向けてスポーツを広めるための「国民体育デー」の実施を決定した。また、文部省が中心となって動くことで更なる具体案を検討することが決められた。国が主体となって動くことで、招致運動はより一層進んでいったのだ。

【筆者のコメント】
オリンピックは開催国自体の積極的な働きかけが必要となります。この懇談会を機に、国民体育デーの設定など、国を挙げての活動が始まっていきました。

招致に向けて、東京都が定めたスケジュール案

東京都は、1959年のミュンヘン総会に向けて各国へPR活動を行う計画を立てた。アジア大会を終えたころ、ライバル地であるモスクワやウィーンなどの招致活動が活発してきたためだ。欧米諸国に比べ地理的に不便な日本は、ち密に計画された活動を行う必要があった。

1958年8月 在外報道関係者の協力を仰ぐ 9月 外務省に在外公館への協力を依頼し、事業予算化を明確にする IOCからの質問に対する回答書の準備 10月 IOC委員と報道通信社にアジア大会のアルバムを発送する 11~12月 大会招致使節団として2人を委員のいる国へ派遣する

1959年 1~4月 招致運動を進める 5月ミュンヘン総会へ使節団を派遣する。 10か月を切った時点での計画とその達成については、東京都単独では行えない。そこで、再び岸内閣へ東京都支援を懇願しその運動を強化したのだった。

【筆者のコメント】
ミュンヘン総会まで10か月と短い期間において、東京都にとって政府の支援は必要不可欠でした。外務省などのサポートで、効率的な招致運動が行われていきました。

まとめ

華々しい活躍を遂げたように思えますが、平均寿命が短かったこともあるのか短命です。

弥彦は、人として、かなり魅力あふれた人物のようですが、生田斗真さんがハマり役になりました。

お肌が、キレイですね。

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