いだてん9話三遊亭朝太?あらすじとネタバレ!3月3日「さらばシベリア鉄道」感想

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2019年3月3日(日)

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あらすじ

四三さんと弥彦は、ついにストックホルムに向け旅立ちます。

治五郎は、校長で官員なので、国家の役人が長期出張をするのは、手続きが面倒で、文部省との行き違いにより新橋で足止めをされます。

船の出発地である、福井県敦賀に着くまでは、治五郎の代わりに可児が同行します。

敦賀からウラジオストクに着き、シベリア鉄道で17日間の旅となります。

シベリア鉄道に乗る段になっても、治五郎は来ません。

5月20日、ハルピンに到着。ここは3年前に伊藤博文が暗殺された場所です。

治五郎の渡航が遅れる中、監督の大森兵蔵と安仁子のハネムーンのような態度、外国人の横柄さに四三さんは不安を募らす。

一方、孝蔵は、師匠・円喬から「朝太」という名を授かり、噺家デビューへ歩みだす!
参考:Yahoo!テレビ

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感想

全国区の四三さんと弥彦
今と違い、情報源と言ったら新聞くらいしかなかったと思いますが、四三さんと弥彦の活躍は、全国に広がっていたんですね。

新橋から汽車に乗って、行く先々で歓迎を受けますが、今も昔も有名人に対して熱狂的なのは変わりません。

純朴な四三さんは、それほど自分が、歓迎されるような立場だなんて思ってもみなかったと思います。

戸惑いながらも、歓迎に応じる四三さん、相変わらず純朴で不器用な感じが面白いです。

怖いお姑さん
新婚のスヤは、すがすがしい朝を迎えると、一晩中様子をうかがっていたのかと思うように、姑の幾江がいるじゃないですか!

お嫁さんのやることは、姑が顔を洗うために洗面器を持って、朝待機しろなんて怖いですね。

お嫁さんに、そんなことをさせるなんて、今だったら、みんな逃げそう。

四三さんの意外な表情
四三さんにとっては、親のような治五郎先生が来てくれるものと期待していますが、顔を現す気配がありません。

大森は、目の前で安仁子とイチャイチャしていて、その様子に、純朴な四三さんが、見たこともないような怪訝な表情です。

朝、安仁子が、みそ汁を作ってくれて飲みますが、美味しくありません。

それなのに、大森は、安仁子にべた惚れして「おいしいよ」なんてほめるじゃないですか!

いやな感じ!

人柄の良い四三さんと言えど、高潔な日本人として、大森の西洋人かぶれな様子が気に入らず、可児に手紙で「世は西洋人が嫌いなり。半かじりは尚嫌いなり。」と大森の悪口を書きますが、それを読んだ可児先生と、永井先生は大森のことだと察してウケちゃってます。

みんな思うことは、一緒でした!

弟子入り
孝蔵は、師匠の円喬からポチ袋を渡されると、そこには「朝太」の文字があります。

「明日から、手ぶらで来な」って、さすが、円喬ほどの人は、やることが粋ですね。

こういう、いわゆる”旦那”みたいな人って、今はいないのだろうな。

何もないような時代ですが、円喬のような人に認めてもらって、世に出ることができたんです。

そのことを孝蔵はわかったと思うので、しみじみとした表情を見せます。

いい表情です。

良かったですね。

さすが弥彦!
頻繁にせき込む大森先生を気に掛ける弥彦でしたが、その心配は案の定でした。

大森先生は、肺を患っていて、そんな大森先生を心配した安仁子は、ストックホルムオリンピックに行けなかったら、オリンピックを見る夢は一生叶わなくなるから、行かせてやってほしいと治五郎先生に頼んでいたのでした。

安仁子は、大森先生が”大和魂”として書いた「オリンピック式陸上運動競技法」には、短距離走の練習法などがつづられていました。

永井先生は、そんな事情があったとは知らなかったと「恥ずかしい!消えてなくなりたい!」

可児先生も、悪口を言って笑ったことを詫びます。

日本人の高潔さは、どこへ行っちゃったんでしょうね。

くそまじめな四三さん
せき込んで床に臥せった大森先生をたよりなく思った四三さんは、不安にかられます。

おまけに治五郎先生はいないし、弥彦は女には甘いしで、とてもこれでやっていけるとは思えなくなり、ブチ切れます。

汽車の長旅は、ストレスになると思います。

弥彦のように、柔軟に女の子と軽口をきければ、四三さんも違うのでしょうが、いかんせんくそまじめなんですよね。

と思っていたら、シベリア鉄道の最後の晩餐で、四三さんは「ぶどう酒、頼んでいいですか?」

あっ~これくらい、ゆるいところがあって良かった。

おまけに、弥彦に天狗倶楽部の応援をねだります。

弥彦は快く、いつものように応援をすると、言葉を超えて、みんなの拍手喝采を浴びることになり、いい旅になりました。

三遊亭朝太

朝太の名は、4代目橘家圓喬が三遊亭圓朝に入門した折に名乗ったのが最初です。

後に5代目古今亭志ん生が三遊亭朝太を前座名として、志ん生は圓喬の弟子を自称していたのですが、実際は2代目三遊亭小圓朝門下だったと考えられています。

三遊亭朝太から始まりましたが、長い事貧乏暮らしで、借金取りに追われたことから、円菊、馬太郎、武松、馬きん、志ん馬、馬生、小金井芦風、また落語家に戻って2回目の志ん馬、馬生と、16回名前を変え、昭和14年(1939年)49歳で五代目古今亭志ん生を襲名します。

朝太の名は古今亭一門の出世名として受け継がれていくことになります。

セントピータースバーク

ロシヤの首都セントピータースバークに到着とありますが、おそらくサンクトペテルブルクのことだと思います。

現在でも、ロシア大陸を鉄道で横断となると、1週間くらいかかるみたいです。

コラム

ロサンゼルス大会の外交的な意味合いとは?

1932年7月30日オリンピックロサンゼルス大会が開かれた。日本選手団も例にたがわず出場したのであるが、この大会は日本にとって需要な役割を担っていた。それは、日本の外交政策との兼ね合いで、恣意的に活用されたことにある。

オリンピックとは、スポーツの大会であり、本来は政治とは切り離されるべきである。ところが、当時の世界情勢は各地で戦争が起こるなど、日本も他人事ではなかった。大会の10か月前、1931年9月には満州事変が発生、その後中国との関係も悪化の一途をたどっていった。

そして、満州事変は各国の日本に対する心証も悪く変えてしまった。1933年2月24日には国際連盟総会で満州国建国の否認を賛成多数で可決。日本は3月27日には国際連盟を脱退、孤立してしまったのだ。そのためロサンゼルス大会への出場は、海外からの批評を柔らげる狙いがあったのだ。

【筆者のコメント】
満州事変以降、アメリカをはじめとする海外諸国は日本の非難を始めました。しかしスポーツは平等と平和のもとに行われるものであり、ロサンゼルス大会への参加は、これを実現する役割も担っていました。

意外?オリンピック招致に冷ややかだったスポーツ界の反応

紀元2600年構想にオリンピックを組み入れたい永田東京市長と、日本のスポーツを広めたい山本早大教授であったが、そのオリンピック招致構想に冷たい反応をしたのが日本スポーツ界であった。先に問題視したのが当時の大日本体育協会の第2代会長であった岸清一である。

第1代会長はスポーツ界の権威でもあり積極的に招致活動を行った嘉納治五郎であったが、岸は嘉納とはスタンスが異なった。とはいえ岸自身はIOC委員にも就任しており、1924年に開催された第8回オリンピックパリ大会では日本選手団長も務めている。

その岸が東京招致に消極的だった理由はただ一つ、日本のスポーツ界が振るわないため、招致をするには時期尚早だということだった。山本が岸の丸の内事務所を訪れ大日本体育協会の招致への活動を求めた際も、消極的な対応を行っていた。

【筆者のコメント】
IOC委員に就任している岸氏は、世界各国のスポーツ事情もよく知っていたことでしょう。そのため、日本の上京を勘案して、消極的な態度に出たように思われます。

異例だった?6年での大会招致成功

1936年7月31日、IOCベルリン総会において、第12回オリンピックの開催地が東京に決まった。東京市がオリンピック招致を始めたのが1930年、当時の東京市長だった永田秀次郎によってである。つまり、若干6年で、オリンピックを招致できたといえる。

6年での開催決定は、当時異例ともいえるスピードだった。ほかのライバル地は10年以上招致を続けているところがほとんどだったのだ。この勝利は、新聞各紙ですぐさま特集が組まれた。知らせを受けた東京市では、8月3日から3日間にわたり祝賀行事を結構、花火も上がる事態となった。

ベルリンから開催決定を伝えるラジオでは、現地にいた副島道正による放送があったが、副島は心がいっぱいで声にならなかったという。嘉納はオリンピックが世界的なものであるとすること、日本を外国に知ってもらえるチャンスだと喜んだのである。

【筆者のコメント】
招致活動を進めてきた永田や副島らにとっては、東京開催の決定は言葉にならないほどの喜びだったでしょうね。

永田市長にオリンピック招致を提案した清水照男とは?

紀元2600年記念になる催しを検討していた市長永田秀次郎に東京都へのオリンピック招致はいかがなものかと提案したのが清水照男だ。清水は東京市の秘書課員であり、以前から4年に1度開かれるとされているオリンピックに関心を持っていたのだ。

さらに清水は、スポーツ界に通じており、1928年アムステルダムで行われたオリンピック大会に出場し日本人で初めて金メダリストになった織田幹雄や森田俊彦らとも関係があった。そのため、スポーツで日本を活性化させたいという希望があった。

また、これまでオリンピックはアジアの開催前例がないこと、日本人選手は世界舞台での活躍が求められていることを清水は永田へ熱く語った。その結果、永田はオリンピックの東京招致を快諾、すぐに招致計画へ乗り出したのだった。

【筆者のコメント】
当時、清水氏の熱意は復興に燃えていた永田市長と通じるところがありました。オリンピックを東京へ招致することが東京都の発展に役立つと熱心に話し合ったとのことです。

永田市長辞任ののちのオリンピック招致活動

オリンピックを東京に、その招致活動を実現させたのは永田秀次郎東京市長だった。政府や体協の協力の下、国際的にも招致活動を本格化させてきた矢先、永田は突然市長の座を降りることとなった。1933年1月18日の事である。

背景には、当時東京市会における汚職事件があり、東京市営墓地の買収問題などが起こっていた。その際、東京市の第3助役など2人が東京地方検事局へと召喚されることとなった。永田はその責任を取っての辞職をしたのである。

その後、市長には牛塚虎太郎が就いた。牛塚は岩手県、群馬県、宮城県の知事、さらには東京府知事も務めており行政知識に長けていた。そして、永田の意を引き継ぐべく、オリンピックの東京招致活動を行ったのであった。

【筆者のコメント】
この頃、大東京構想が実現し、世田谷区や渋谷区などが設置され新たな行政基盤へと変わろうとしていました。行政知識に長けていた牛塚氏は、行政的な変化にも対応、招致活動も引き続き行ったそうです。

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