伊藤博文の暗殺者場所は中国のハルビンで!理由は?犯人は安重根韓国人?

伊藤博文の暗殺者場所は中国のハルビンで!理由は?犯人は安重根韓国人? 政治

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伊藤博文というと、伊藤博文の1000円札が1986年まで発行されていましたが、失礼ながら夏目漱石よりも重みがありました。

伊藤博文は、百姓の子供として生まれますが、家が貧しく、父が奉公人の養子となり、伊藤姓になったことから徐々に運命が回っていきます。

やがて幕末の倒幕運動に奔走し、明治維新以降は新政府の要職を歴任、初代内閣総理大臣にまでになりましたが、最後は暗殺により亡くなってしまいます。

豊臣秀吉の人生になぞらえるようにも思えますが、ここでは伊藤博文が、どういった最後を遂げたのかまとめました。

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伊藤博文とは

伊藤博文の暗殺者場所は中国のハルビンで!理由は?犯人は安重根韓国人?
伊藤 博文(いとう ひろぶみ)

天保12年9月2日(1841年10月16日)~明治42年(1909年)10月26日)

長州藩の武士であり政治家。

位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。

幼名は利助(りすけ)

出身地:周防国(山口県光市束荷字野尻)

百姓の長男として生まれますが、5歳のころ、家が破産したことで、母と共に母の実家へ預けられます。

8歳のころ、嘉永2年(1849年)に父に呼び出され萩に移り住みます。

家が貧しかったため、12歳ころから父が長州藩の奉公人の養子となりますが、さらに養父が安政元年(1854年)に周防佐波郡相畑村の足軽の伊藤弥右衛門の養子となったことで、伊藤姓を名乗ることになり、父と博文も足軽となります。

安政4年(1857年)2月、15歳のころ、江戸湾警備のため相模に派遣されていた時、紹介で吉田松陰の松下村塾に入門します。

1858年10月からは紹介により、桂小五郎(後の木戸孝允)の従者となり長州藩の江戸屋敷に移り住み、ここで志道聞多(後の井上馨)と出会い、親交を結びます。

高杉晋作・井上馨らと尊王攘夷運動に加わる一方で、万延元年12月7日(1861年1月17日)19歳のころ、イギリス留学を志願します。

文久3年(1863年)には井上馨の薦めで海外渡航を決意しますが、これは、ジャーディン・マセソン商会横浜支店(英一番館)が支援したことで、5月12日に井上馨らと共に長州ファイブの一人としてイギリスに渡航します。

※「長州ファイブ」として映画にも

9月23日のロンドン到着後、ジェームス・マセソンの甥ヒュー・マセソンの世話を受け化学者アレキサンダー・ウィリアムソンの邸に滞在し、英語やマナーの指導を受けます。

ロンドンでは英語を学ぶと共に博物館や美術館に通い、海軍施設、工場などを見学して見聞を広めます。
留学中にイギリスと日本との、圧倒的な国力の差を目の当たりにして開国論に転じます。

元治元年(1864年)3月、22歳、米英仏蘭4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上馨と共に急ぎ帰国します。

と言っても、横浜に着くのは6月10日です。

慶応4年(明治元年、1868年)27歳のころ、外国事務総裁東久世通禧に見出され神戸事件と堺事件の解決に奔走したことが出世の足掛かりとなります。

明治維新後は、長州閥の有力者として、英語に堪能な事を買われて参与、宮内卿など明治政府の様々な要職を歴任しますが、これには木戸の後ろ盾があり、井上馨や大隈重信と共に改革を進めることを見込まれていたからでした。

1866年4月、25歳、梅子と結婚し、12月に長女の貞子が誕生。

1868年1月、26歳、外国事務掛となります。

1868年5月、兵庫県知事になります。

1870年10月、財政制度調査のため渡米

1871年10月、岩倉使節団に副使として欧米諸国を訪問

1872年3月、全権委任状受け取りのため、大久保利通と共に一時帰国しますが、5月に再度渡米します。

7月、ヨーロッパへ

1873年9月、32歳、帰国

1873年10月、参議兼工部卿

1878年5月、内務卿

1882年3月3日、41歳、明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられ、3月14日、岩倉具定・西園寺公望ら随員を伴いヨーロッパに向けて立ちます。

はじめは、ベルリン大学のプロイセン憲法の逐条的講義を受けます。

その後は、ウィーン大学の国家学教授・憲法学者であるローレンツ・フォン・シュタインに師事し、歴史法学や行政について学びますが、これが帰国後、近代的な内閣制度を創設し、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことにつながります。

1884年7月、43歳、伯爵となります。

1885年(明治18年)12月、44歳、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目されますが、井上馨は「これからの総理は外国電報が読めなくてはだめだ」と主張し、伊藤の英語力が決め手となって44歳2か月で、初代内閣総理大臣となります。

以後、第5代・第7代・第10代と4度にわたって内閣総理大臣および初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監、元老を歴任しました。

伊藤博文の暗殺者場所は中国のハルビンで!

伊藤博文は、1909年(明治42年)10月16日、満州旅行のために、福岡の門司から中国に向かい、大連、旅順と視察をして、10月26日に、列車でハルビンに到着します。

そのハルビン駅のプラットフォームで銃撃を受けて亡くなります。

享年68

伊藤博文の暗殺理由は?

伊藤博文は日韓併合を反対していたのに、安重根は伊藤博文が併合を推進したと思い込み暗殺を行ったようです。

わざわざ暗殺したために、併合派の勢いが増したと言われています。

こんな話も

安重根は、明治維新の時に孝明天皇を暗殺したのは伊藤博文だと信じていました。
伊藤博文の身体からは安重根の撃った銃弾は発見されず、その代わりに2発のライフルの弾が致命傷になりました。
安重根はソ連のスパイに利用された可能性が高い。

伊藤博文と朝鮮についての関わりをざっと

1884年、朝鮮において、独立党により、日本の援助で王宮を占領し新政権を樹立しますが、清国軍の介入によって3日で失敗した甲申政変が起きます。

1885年(明治18年)2月、44歳、甲申政変の事後処理のため清に派遣されます。

1885年3月16日、新聞「時事新報」に福沢諭吉による「脱亜論」が社説に掲載。

1885年4月18日、伊藤博文と李鴻章との間に天津条約を調印。

これは、日清両国は朝鮮から撤兵し、朝鮮へ出兵する場合は、互いに事前通告するものです。

1894年、朝鮮で起きた農民の内乱による甲午農民戦争の処理を巡り、日本と清国との間で日清戦争へ発展する。

1895年、日清戦争の結果として、伊藤・陸奥と李鴻章とのあいだで下関条約が締結。

清から朝鮮独立、台湾の澎湖諸島を獲得し、日本領台湾となります。

1905年11月、64歳の時、特派大使として韓国に渡り、ポーツマス条約に基いて第二次日韓協約(韓国保護条約)を締結します。
1905年11月22日、投石により韓国内で負傷。
1905年12月、韓国統監府が設置され、初代統監に就任。
1906年2月、日本公使館を韓国統監府に改め、国内12カ所に理事庁、11カ所に支庁を置きます。
1907年6月、ハーグ密使事件。
1907年7月、京城(ソウル)にて新聞記者達の前で「日本は韓国を合併するの必要なし。」と演説します。
1908年、韓国銀行(のちの朝鮮銀行)を設立。
1908年9月、京城(ソウル)に朝鮮皇室博物館(現:韓国国立中央博物館)を造営。
1909年6月、韓国統監を辞任します。

犯人は安重根韓国人?

安重根(アンジュングン)は、北朝鮮にある黄海道の道都海州府首陽山の両班(貴族階級)の家に1879年9月2日、三男一女の長男として生まれます。

安重根の父は、幼少の頃から、英才として知られ科挙に合格しますが、1884年甲申政変で開化派が失脚した影響で、学生も排斥され、行く末を閉ざされてしまいます。

祖父は、家財を売り一族を連れて信川郡青溪洞に移住し難を逃れます。

教育熱心な祖父により、安重根も6歳で漢文学校に入りますが、14歳の時に祖父が亡くなると、安重根は半年間学業を休みます。安重根は学校へ行かないことを誇り、狩猟や銃、飲酒などを好む浪費家となります。

1894年、16歳の時に妻をめとります。

またこの年に甲午農民戦争がありました。

父は東学党が外国人排斥や官吏を殺害して暴れまわっていたことから、私兵を集めて自警団を組織し青溪洞に避難民などを保護しました。

翌年、父が東学党から奪った軍糧が、もともと年貢米だったということで、国庫金のりゃく奪であると訴えられ汚名を着せられます。

父は京城に赴き、無実を訴えますが、聞き入れられませんでした。

安一族はパリ外国宣教会のフランス人の司祭にかくまわれます。

この一件で、安重根も洗礼を受けて17歳で改宗します。

安重根は熱心な信者となり、神父から数か月フランス語を学び、神父と西洋教育の大学校を開こうと相談しますが、「韓国人にもし学問があっても信教によいことはない」と拒絶されます。

再三依頼し断られると、安重根は、「日本語を学ぶ者は日本の奴隷になり、英語を学ぶ者は英国の奴隷となる。もしフランス語を習得すればフランスの奴隷になるのを免れるのは難しい。もし韓国の威が世界に振るえば、世界の人も韓国語を用いることになる」から必要ないとして外国語学習を辞めてしまいます。

1904年、日露が朝鮮半島などの植民地領有を巡り日露戦争が勃発すると、安重根は日露のどちらかが勝っても、韓国はその勝者の属国になると悲観します。

安重根は、「東洋の平和を維持し、韓国の独立を強固にする」ためとする建前を信じていて、その大義を日本が守らないのは全て政治家が悪いのであり、伊藤博文の策略のせいであると考えていました。

しかし伊藤の勢力は強くこれに抵抗しても無益だと、安重根と父は話し合います。

清国の上海などには韓国人が多いと聞き、安一族も亡命するべきだと考えます。

ところが、上海で旧知でフランス人の郭神父に遭遇すると、朝鮮民族の危機をさとされ、外国に逃げたり、外国の力を借りて民族独立を計ろうというのは間違いであると指摘されます。

このことで、大韓帝国の独立には、朝鮮民族が団結するべきという意見を持つようになります。

1905年、父が他界。

1906年、私財を投じて三興学校と敦義学校という2つの学校を設立。

1907年、父の知人から北方にあるウラジオストクには韓人百数万人がおり、物資が豊富であると聞くと、安重根はロシアで事業を起こそうと資金を工面しますが失敗。

この年の7月、伊藤博文が訪韓して日韓協約を結ぶものの、反感を持っていた李氏朝鮮第26代国王である高宗の指示により、平和会議へ派遣されていた密使が抗議活動をしたことで、結果的に高宗は強制退位となり、皇太子に譲位するという展開がありました。

こちらは高宗皇帝の肖像写真

高宗皇帝の妃

国内が不安定な中、安重根は急に家族を置いて、友人と共にウラジオストクにたどり着きます。

ウラジオストクで安重根は、2人の義侠と知り合い、3人で韓国人を相手に演説を行います。

彼らは「日露が開戦した時、東洋平和の維持と韓国独立を明示しながら守らず、そればかりか韓国を侵略して条約を課し、皇帝廃位、軍隊解散、鉄道、鉱山、森林、河川を奪った」と日本を非難し、「日本の大政治家である伊藤博文」のせいだと主張。

伊藤は韓国民は日本の保護を受けて平和であるとしているが、それは「天皇を欺き、外国列強を欺いている」悪だくみによるものとし「この者を消さなければ、韓国は必ず滅び、東洋もまさに亡びる」と演説して伊藤暗殺の同志を募ると、300名の義兵を組織することができました。

これをもって1908年6月、日本軍と交戦したものの、安重根と仲間との間で意見が食い違い、あげく日本軍に襲撃されて散り散りになってしまいます。

1909年正月、同志12名と共に「断指同盟」を結成。

1909年3月21日、海朝新聞に、大韓帝国の国権回復のために同胞に団結を訴えることを紙面に寄稿します。

1909年9月頃、伊藤博文を暗殺することを決めた。

1909年10月21日(陰暦9月8日)ウラジオストクを出発し、10月22日、ハルビン市に到着。

1909年10月26日、伊藤博文は、午前9時、哈爾浜駅に到着した。

伊藤らが列になってロシア要人らと握手を交わしていたところに、群衆を装って近づいていた安重根が、10歩ほどの至近距離から拳銃を発砲。

安はすぐにロシア官憲により捕まります。

1910年3月26日絞首刑を執行(30歳没)

いわゆる三・一運動とは関係ありません。

旅順監獄の看守で、安重根の監視の担当となった千葉十七は、当初は伊藤を暗殺した安を憎んでいましたが、話を重ねるごとに千葉は安の思想に共感を覚えるようになります。

安重根は親日家で、日本の皇室を尊崇していたことからのようです。

処刑の直前、千葉に「東洋に平和が訪れ、韓日の友好がよみがえったとき、生まれ変わってまたお会いしたいものです」と語ったという。

千葉は、終生、安の供養を欠かさなかったそうです。

安重根の遺骨は、中国大連市の旧旅順刑務所付近に埋葬されているとみられており、2019年韓国の文在寅大統領は、安重根の遺骨を「必ず発掘する」と強調しています。

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