いだてん10話金栗四三JAPAN反対!あらすじとネタバレ!3月10日「真夏の夜の夢」感想

三遊亭朝太いだてん経歴や画像?孝蔵役の森山未來が金原亭馬生と古今亭志ん朝

2019年1月20日(日)

あらすじ

日露戦争の勝利のためか、日本人選手に対して注目を集めます。

ちょうど同じころ、ポルトガルのラザロという選手も初参加で勝か死ぬかの覚悟を持っていました。

ストックホルムで四三さんは白夜に苦しめられます。大森兵蔵の体調が芳しくないため、四三は弥彦と共に自分たちだけでトレーニングを始めます。

ある日、ロッカールームで、ラザロが四三さんの履いている足袋に興味を持ちます。

ラザロは大工をしており、貧しくて電車に乗れないので、いつも走っていたところ、マラソン選手にスカウトされたという。

四三さんも電車に乗らず通学していることから、親近感を持ち、ラザロに替えの足袋をプレゼントします。

外国人選手との明らかなレベルの差に滅入っていく。

「吸血鬼になった気分だ」という弥彦は、やがて追い詰めらとんでもない行為に…。

その頃、「朝太」の名を授かった孝蔵も、円喬の話術を必死に盗もうと取り組むが、その凄さに圧倒される。

6月23日、夏至を迎えたストックホルムは、夜が全くなく、ホテル内では毎晩、楽団の演奏で歌ったり踊ったりしています。

そこへ治五郎先生が姿を現します。

治五郎先生は、自分の部屋へ四三さんと弥彦、大森夫妻と、内田公使を呼びます。

開会式のプラカードの表記について、国際大会なので「JAPAN」でいいだろうと、大森は言いますが、四三さんは納得しませんでした。

参考:Yahoo!テレビ

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感想

人見知りな四三さん
四三さんたちがストックホルムへたどり着くと、あの日露戦争で勝った東洋の国から来たことに注目を集めます。

西洋人にしたら、大陸のロシアと戦った東洋人に興味津々。

なぜ、日本人がロシアと戦って勝ったのかと聞かれた弥彦は、”大和魂”のおかげだと応えますが、ふだんから何に足しても物怖じすることないだけあって、さすがですね。

そこへ行くと、四三さんは、西洋人に囲まれ、なめられたらいけないとばかり緊張感からか、リラックスして打ち解けようとしません。

ほんと武骨というか、ぶれることがないです。

ポルトガルのラザロという選手が、四三さんの履いている足袋に興味を示したことで、頑なだった四三さんが気持ちを開くと、そんな四三さんの姿に、周りの西洋人がうらやましく思ったのかちやほやしだします。

逆転する弥彦

日本にいるときは、何かしら注目を集め、何不自由なく育った弥彦ですが、まさかこのストックホルムへ来て、貧しい田舎から出てきた四三さんと立場が逆転するとは思ってもみなかったことでしょう。

カルチャーショック以上に、プライドが傷ついたんじゃないかと思います。

おまけに四三さんは、世界記録保持者ですが、弥彦は日本では代表に選ばれたと言っても、いざ西洋人と対戦をすると、ガタイの造りから何まで自分が劣っていると、いたたまれなくなってしまいます。

大森監督は病に臥せっているし、誰も弥彦の気持ちをわかってくれる人がいません。

パニックになってしまってもしょうがないでしょう。

あまりの挫折感に、とうとう弥彦は、窓から飛び降りようとまでしてしまうのですから、精神状態が、どれほど追い詰められたか良く分かります。

幸いにして、四三さんが気づいて、助けてくれたことで、事なきことを得ますが、弥彦がふんどし姿だったところへ、止めようとした四三さんが抱き着き、ベッドに伏せますが、そんなところを安仁子が目撃します!

完璧、安仁子は、二人のことをただならぬ関係と勘違いしたことに違いありません。

四三さんと安仁子は、よっぽど馬が合わないんでしょう。

笑っちゃいます。

これが契機となって、ようやく四三さんと弥彦は、勝ち負けではなく、やれることを精一杯しようと、練習に打ち込むことができて良かったです。

通過儀礼のようなものだったんでしょう。

四三さん、お疲れさまと言いたいです。

四三さんと孝蔵の接点
ポルトガルのラザロが、四三さんの足袋を気に入ってくれたことで、気をよくした四三さんは、黒坂辛作のところに電報を打って、足袋を送って欲しいと頼みます。

足袋職人で地道に足袋を作ってきた黒坂辛作にとっては、自分のことのようにうれしいことでしょう。

そこへ、車夫の清さんが、孝蔵が橘家圓喬のところに弟子入りすることになったので、着物を作らないかと話を持ってきます。

まさか、黒坂辛作のところで、四三さんと孝蔵の接点ができるなんて、この後、二人が絡むことがあるのか面白くなりそうです。

治五郎先生到着

ガタイの良い西洋人の中で、ただですら経験のない行事に参加するとあって、それだけでも気持ちが押しつぶされそうだったと思います。

しかも、周りの西洋人たちは、何人も仲間がいて、監督を中心に練習をしていますが、日本勢は、乏しい状況の中での参加なので、仲間だけでなく、四三さんにとってはマラソンの監督もおらず、孤独との戦いになってしまいました。

単純に練習をすれば良いのではないので、精神的にキツイ状況です。

おまけに、ちょうどストックホルムは、夜でも昼間のように明るく、とても疲れた体と気持ちを休める状態にないところへ、スウェーデン人たちは、夏至祭で、どんちゃん騒ぎをしています。

たまったものではないと、四三さんは、止めるように抗議しようとしますが、等のスウェーデン人たちは、お祭りなので、せっかくの東洋人たちも歌ったらどうだと陽気です。

四三さんは、とても抗議できる状況にないと察して、「君が代」を弥彦とともに歌いだします。

日本独特の音色に、スウェーデン人たちは、言葉も出ません。

そんなところに、治五郎先生が日本から到着します。

どこか楽天的な治五郎先生は、自分のために歓迎してくれたんだと勘違いするから、おめでたいことです。

四三さんにしてみたら、やっと親同然の治五郎先生の顔を見られて、ホッとしたと思います。

ところが、それもつかの間、開会式のプラカードの表記について、国際大会なので「JAPAN」でいいだろうと、大森は言いますが、四三さんは「日本は、日本です」と強気の主張をします。

ここは、西洋人と真正面からぶつかって戦う、四三さんの意をくみたいと個人的には思うのですが、国際大会で、それが通用するか、そこらへんが問題です。

ともかく、一時は、パニックに陥る弥彦のことで、どうなるかと気持ちが暗くなりましたが、少しは明るい兆しが見えそうです。

コラム

遠隔地の解消は、派遣費の支援でカバー

東京がオリンピックを招致するに当たり、一番問題となるのが世界各国から訪れる選手たちの派遣費用だ。当時は交通機関もあまり整備されていなかったことから、航空機や船などの移動で驚くほどの費用が掛かっていた。

この費用負担が東京招致におけるネガティブ材料の一つだった。そこで、1934年12月27日、東京市会が動いた。「1940年のオリンピックが東京で行われるならば各選手の派遣費として東京市から100万円補助する」という案を取り決めた。

当時IOC委員らを悩ませていたのが、日本が欧米諸国からかなり離れているという立地的な問題だったのだから、その費用をカバーすればIOC委員の心も動かせると考えたのだ。東京市の決断は、IOC委員の心を動かす結果となった。

【筆者のコメント】
オリンピック大会がヨーロッパを中心に行われていたのは、アジア圏の経済面が未発達で立候補がなかったことと立地的な理由もありました。東京市の派遣費援助により、各国の選手も来日しやすくなると考えられました。

欧州での招致活動の先陣をになった清水照男

招致活動をスタートさせた東京市にとって、まずすべきだったのが欧米各国への東京招致への理解を促す活動だった。白羽の矢が立てられたのは、東京市秘書課員だった清水照男だ。ほかでもない、市長永田へオリンピック招致の提言をした人物だ。

当初清水を派遣することに反対意見はあったものの、永田は招致活動の露払い役にうってつけだと清水を指名、1932年5月7日、清水は単身で出発したのである。経路はシベリア鉄道からヘルシンキへ、そして飛行機でストックホルムへ向かうものだった。

スウェーデンでは、永田のメッセージと、エドストロームと親交のあった山本からの紹介状、そして、自分で用意した日本人形を備えエドストローム邸へと訪れた。日本大使館は取次を行わなかったことから清水自身が連絡を入れ、接見へと相成った。

【筆者のコメント】
清水市は、これまでに飛行機の搭乗経験もなく、この出張が初めての海外進出となりました。途中、航空機が小島に不時着した出来事もありましたが、苦難の末エドストローム邸までたどり着いたそうです。

可能性はあるのか?山本忠興とエドストローム、ヨーロッパでの対談

1929年、日本でIOC委員のエドストロームと対談した山本忠興は、オリンピック日本招致への想いを強めていった。その後1930年、山本はヨーロッパ遠征として日本学生陸上チームと共にヨーロッパへ旅立った。その旅路は資金に欠くもので、各国で行われる競技の入場料などを滞在費に充てたのである。

山本らは、ソ連をこえて、スウェーデンへと入国、7月26日高上町であるヴェストロスに入った。その目的はただ一つ、IOC委員であるエドストロームに面会するためである。エドストロームは現地で電気会社を経営していたのだ。

電気工学の専門家でもあった山本は工場見学ののち、エドストロームに、東京招致に可能性はあるのかを確認した。その解答は、「ヨーロッパから東京が遠すぎる。しかし、競技施設を充実させ、各国委員の理解が得られれば実現可能性もある」というものだった。山本は帰国するとただちにその旨を永田に報告したのであった。

【筆者のコメント】
学生を引き連れてのヨーロッパ遠征は資金に乏しく、かなりの苦戦を強いられたようです。しかしながら、山本氏の行動によりエドストローム氏と面会、東京招致の糸口を見つけることができたのですね。

嘉納、副島、各IOC委員が感じていた日本の出遅れ感

1934年アテネで開かれたIOC総会では、日本から嘉納治五郎が出席していた。その帰路、嘉納は欧州の各都市において招致活動を行った。ところが、途中病魔に襲われ照国丸にて横浜港へ帰還することとなった。この際に作られた報告書は東京市会に提出された。

内容は、「日本の招致活動は努力不足と感じられるのに反し、イタリアは立地も良く、ムッソリーニ首相が招致活動に熱心に動いている。このままでは東京招致は可能性が低い」というものであった。この手ごたえの弱さを感じたのは嘉納だけではなかった。

岸の代わりにIOC委員に選ばれた副島も同じく、同年12月オスロ総会へ出発する際、「イタリアはすでにスタジアムを建設しており開催が決定的であるが、東京は手遅れだ。」との旨を述べている。しかし、この窮地をもう一人のIOC委員杉村陽太郎が救うこととなるのだ。

【筆者のコメント】
第12回オリンピックのライバル地であるローマは、すでに大理石を用いた壮大なスタジアムが建設されているなど、招致成功も秒読みでした。この差を埋めるべく活動を始めたのが杉村氏だったのです。

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