いだてん12話金栗四三が日射病!あらすじとネタバレ!3月24日感想

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2019年3月24日(日)

あらすじ

マラソン競技の当日、スヤは夫の重行とともに、金栗家を訪ね、どうしても四三さんに食べて欲しいと、生きのいい鯛を差し入れに持ってきます。

実次は、スウェーデンまでは2週間かかるからと断りますが、スヤはみんなで四三さんを応援しようと、鯛をさばき始めます。

四三は、病気の大森兵蔵を背負ってスタジアムに入り、準備万端とは言えないままレースに臨む。序盤は順調にペースを上げるが、記録的な暑さが激しく体力を奪っていく。そして―。スタジアムで四三のゴールを待っていた治五郎や弥彦は戻らない四三さんを必死に探します。

参考:Yahoo!テレビ

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感想

スヤの心意気
四三さんのオリンピックのお祝いにと、スヤが重行とともに金栗家へ生きの良い鯛を持ってきます。

途中、川で水浴びをしている若者の姿に、四三さんを思い出したのでしょう。

何も知らないとは言え、まじめにスウェーデンにいる四三さんのところへ、新鮮な魚が届くものと思っているなんて、かわいらしいこと。

兄の実次は、スウェーデンまで2週間はかかるとしか応えようがありません。

それはともかく、せっかくだから持ってきた鯛をみんなで食べましょうと、スヤは一体誰の嫁なのかと思ってしまうのですが、鯛をさばいて金栗家を切り盛りします。

桜色の着物を着たスヤの初々しさが、一層輝いて見えました。

できる男!弥彦
管理人は、長距離を走るのが大の苦手なので、ただですら長距離を走ることなど想像つかないのですが、いわゆるランナーは、走っているうちに走ることが快感になると言いますが、それも条件があるようです。

四三さんは、いよいよ競技で走り出しますが、レース当日は40度にもなる記録的な暑さに、参加者の半数が棄権する事態になってしまい、四三さんも例外ではありませんでした。

あまりの暑さに、意識がもうろうとしてきて、途中、何度も幻覚のようなものを見てしまったようです。

ここまで来ると、ただ走ることだけで、はっきりとした記憶が残らなくなってしまうのでしょうか。

いつまでたっても、スタジアムに戻ってこない四三さんに、治五郎先生をはじめ弥彦たちは心配して、四三さんを探します。

ふだん快活な弥彦は、ここでもその快活さを発揮して、語学力を駆使して探し回る姿、カッコいいですね。

アメリカ帰りの大森先生も、語学は堪能とは言え、衰弱した体では、思うように動けませんが、その分、弥彦は動き回ったことだと思います。
日射病

何の手掛かりもなく、あきらめかけホテルに戻ると、なんと四三さんが部屋にいます。

みんなどれほど心配して、言葉の通じない国で必死に探したかわからないというのに、一人、部屋で寝ているなんて、開いた口がふさがらないと言った風な治五郎先生。

すると、おくれてダニエルと内田公使が姿を現し「日射病」で運んできたと言うのです。

初めての外国でのオリンピック参加です。

ほとんど情報も何もない中での参加で、一人四三さんは、もうろうとしながらも、いつもと変わらぬようにと実直に走りますが、人間誰しも限界はあります。

40度ですよ。

過酷すぎて想像もつかないのに、それを理解してもらえないなんて、弥彦が笑ってくれたのは多少の救いになったけれど悲しいです。

それを、ダニエルと内田公使が登場したことで救ってもらえて良かったですが、初めてづくしの上に、疲弊しきった四三さんに、状況がわからないとは言え、責められたのは厳しいなと思いました。

実際は、治五郎先生だけではありませんが、四三さんに並々ならぬ期待をかけていたでしょうに、思わぬ事態に、ただ休みなさいと言うしかありません。

大きなカケになってしまい、ガッカリしたとは言えません。

ただただ、初めて尽くしの中、ひたすら頑張ったとしか言いようがないかなと思いました。

コラム

紀元2600年を記念して、東京大会招致を!

1940年にオリンピック東京大会開催招致に熱が入っていた理由をご存知だろうか。それは、古く日本書紀に由来する。日本書紀において日本建国の年から数えて2600年、それを西暦に計算し直すと1940年にあたるのだ。そのため、1940年には国を挙げての祝賀イベントが考えられていた。

招致運動が始まった1930年代は、前年10月24日に発生したウォール街の株価暴落、そしてそこから始まった世界恐慌とも相まって、日本経済も衰退の一途をたどっていた。失業者は軒並み増加、ストライキなども発生し、政治的にも不安が起こっていたのだ。

そこで紀元2600年を祝すイベントを行い、国民を明るく盛り上げるような催しが予定されたのだ。そこでオリンピックの開催を東京市長である永田秀次郎に提案したのが、秘書課員の清水照男だった。永田もその意見に賛同、招致活動が始まることとなった。

【筆者のコメント】
当時は、世界恐慌によって日本の経済も落ち込んでいたようです。それを明るくするための方法を模索していた永田氏は、清水氏の提案に二つ返事で答えたそうです。

競技場はどこに建てる?建設用地選定の裏側

東京大会まであと4年、メインスタジアムをどこに立てるかという計画は東京市と現実との狭間で揺れていた。東京市が計画していたのは月島埋立地であり、隅田川河口近くに埋立地を作りそこへ万国博覧会とオリンピックを行う予定だった。

ところが、月島は風が強く、競技に影響が出る可能性があった。また、万国博覧会と同時にオリンピックを行うことはIOCが最も嫌っている。そこで、招致委員会は、明治神宮外苑の競技場を拡張、新たに競技場を増設する計画を立てた。

両者の対立と、進展しない大会準備に対しIOC内にも伝わり、東京開催取り消し案が浮上していた。そこでラトゥール会長は、「小国の取り消し運動を回避するためにも、早期に明治神宮外苑をメインスタジアムとすべき」だと、日本側に進言したのであった。

【筆者のコメント】
東京市が月島案を立てたのは、震災からの復興計画の1つにするという目的もありました。しかし、対外的なイメージを保持するためにも、早期に明治神宮外苑に決定させる必要があったのです。

金栗四三による女子選手育成を目指す日々

今となっては女子アスリートがたくさん活躍しているが、戦前において女子選手がスポーツ界で活躍する機会は少なかった。その状況に対し、世界に向けて女子選手の育成を試みた第一人者ともいえるのが金栗四三である。

金栗は自身も1912年ストックホルムで行われ第5回オリンピック大会に出場した経歴を持っている。この大会では、女子の水泳や飛び込みがスタートし、テニスなど女子が出場できる種目が数多くあった。それらを見ているうちに日本においても女子選手育成の必要があると悟ったのである。

帰国した金栗は女子体育に力を入れていった。1920年、東京女子師範学校の教師に就任するとテニス部を作った。また、1936年上京し十文字高等女子学校で教師となったときも、1940年東京大会を目指せと言わんばかりに特に長距離ランニングの指導に熱を入れていた。現在の女子選手の活躍は、金栗の努力の上に出来上がったと言えるのではないだろうか。

【筆者のコメント】
金栗氏が、赴任した学校は、女子体育が盛んになり、国内での女子競技人口も徐々に増えていきました。まさに、金栗氏あっての女子スポーツ界だったと言えますね。

公式種目の除外を試みた全日本体育協会

東京大会での開催種目を決めるにあたり、射撃やフェンシング、近代五種競技は公式種目となっているものの、日本側は競技への参加経験が少なく、国内的に専門的な組織もまだ作られていなかった。もちろん、競技に参加できるまでのレベルを有する選手もいなかったのが現実だった。

そこで、全日本体育協会は、公式種目からこの3つの競技を除外しようと試みた。1936年12月28日に体協が組織員会あてに提出した調査書によると、フェンシングは剣道に似ているところ、わざわざフェンシングを習う必要はない。近代五輪競技として欧米軍人が行うもので自国においては殊更行う必要がない。

射撃も馬術も整っていないため開催国である日本が劣位に立ってしまう。そこで1937年1月オリンピック委員会は、フェンシングと近代五種目競技を外すべきだと決定した。しかしながらヨーロッパの伝統を重んじるIOC委員の抗議の結果フェンシングは継続することとなった。

【筆者のコメント】
日本で開催するからには、良い成績を残しておきたかったのでしょう。そこで種目選びも日本人が活躍できそうなものに絞られていきました。

広がる「反東京」と東京大会開催をめぐる動き
日中戦争が始まり半年が経過した1938年、戦備は収まるどころか、ますます激しくなっていった。ところで1938年は東京大会開催にとって節目となる年でもあった。大会を開催するのであれば、競技施設の建設を進めなければならない、逆に返上するのであれば早期に伝え、別の都市へ譲らなければならない。

日本にとっては決心が求められる中、外国諸国は、「反東京」の意識を強くしていった。日中戦争が長引く様相を呈する中で、IOC委員たちから東京での開催を危ぶみ、開催地の変更を促し、東京大会をボイコットする動きがみられるようになったのだ。

イギリスでは、ロード・バーレーIOC委員が「第一次世界大戦以外では、交戦国が大会を行った前例がない」として、「反東京」の意を表した。これに対しアメリカは東京支持を示していたが、その理由は、もっぱら大会は政治的な原因を超越して行うべきだという理想論に基づくものであった。

【筆者のコメント】
イギリスの主張を皮切りに、ヨーロッパ諸国では、「反東京」の動きが出始めました。それでも日本は開催に向けて意欲を見せていたのです。

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