いだてん寺島しのぶの二階堂トクヨ役経歴や結婚や子孫?三本木出身

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金栗四三さんが、ストックホルムオリンピックから帰ってくると、寄宿舎で報告会が開かれ、そこで、永井道明(杉本哲太)の弟子で東京女子師範学校(現お茶の水女子大)の助教授・二階堂トクヨ(寺島しのぶ)から、四三さんのオリンピックでの棄権理由を問われます。

国の代表として、わざわざ海外に赴いたにも関わらず、棄権に至った理由をはっきりさせたかったのでしょう。

それと共に、永井道明は、「学校大喪教授要目」と言って、肋木とスウェーデン体操を基盤にした肉体づくりをまとめたものを、トクヨと全国の学校を回る予定でしたが、トクヨが文部省の要請でイギリスに3年間留学することになり、代役として四三さんの名前が出ます。

この寺島しのぶさん演じる、二階堂トクヨとは、どんな人なのかまとめました。

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二階堂トクヨの経歴とプロフィール

二階堂 トクヨ(にかいどう トクヨ)

生年月日:1880年(明治13年)12月5日~1941年7月17日

出身地:宮城県大崎市(旧三本木町桑折18番地)

二階堂保治、キンの長女

15歳で、准教員検定に合格

地元の三本木小学校で准教員をしていたが、その後に福島県尋常師範学校と東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)を卒業して教師となります。

日本女子体育大学創設者、「日本の体育の母」

1904年、石川県立高等女学校へ赴任。国語教師の傍ら、体操専門学校出身のキリスト教宣教師ミス・モルガンの手ほどきで、スウェーデン体操とドイツ体操をミックスした体操を学びます。

1907年、体育教師として、高知の師範学校へ

1911年(明治44年)東京女子高等師範学校の助教授

1912年(大正元年)イギリスのケント州ダートフォードにある、バーグマンーオスターバーグ・フィジカル・トレーニング・. カレッジ(通称:キングスフィールド体操専門学校)に留学し、マダム・オスターバーグ女史と出会い影響を受けます。

体育の技術だけでなく、広い教養を身に着けた優れた体育教師を育成しようとする教育方針に深い感銘を受けます。

イギリス留学で学んだスポーツの普及に努めます。

クリケットとホッケーを日本に初めて紹介したのは二階堂さんです。

1915年、35歳、イギリスから帰国し、東京女子師範学校教授となります。

1922年、42歳、私財を投げ打ち、日本女子体育大学の前身となる「二階堂体操塾」を開きます。

1928年、アムステルダム五輪陸上女子800メートルで2位に入った日本人女性初の五輪メダリスト人見絹枝を育成しています。

女性が体を鍛えることに偏見があったことを、変えるきっかけになりました。

1941年7月、胃がんで60歳で死去。本願寺和田堀廟所に埋葬されます。

同日勲六等瑞宝章を賜ります。

郷里の三本木にある大崎市三本木総合支所には、二階堂の胸像が設置されています。

いだてん寺島しのぶの二階堂トクヨ

金栗四三さんと出会うのは、二階堂さんが32歳の時になり、イギリスに留学する前のことが描かれています。

1915年にイギリスから戻ると、いったんは母校へ戻りますが、「女子体育は女子の手で」「体育は、官学に任せてはおけない」と、体操女教師を育成するために、体操塾創立をすることを思い立ちます。教育と生活の場の一体化を目指して全寮制です。

二階堂さんは、とくに運動が好きだったワケではありませんでした。

むしろ、体育はキライだったのですが、赴任した石川県立高女で、国語教育を専攻していたのですが、体育を受け持つことになり、指導をしているうちに、体が健康的になることに気づきのめり込みます。

教え子の視点からの記述や同窓生による伝記、学園の記録

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二階堂トクヨ三本木出身

いだてんの脚本を手掛けている宮藤官九郎さんの出身が、宮城県栗原市で、二階堂さんが出身の宮城県大崎市と隣なんだそうです。

いだてん寺島しのぶの二階堂トクヨ結婚や子孫?

二階堂さんは結婚していませんが、若い頃は結婚願望があったようですが、唯我独尊のような性格で、相談できる人がいなかったとか。

弟の二階堂清寿さんが、1948年(昭和23年)に日本女子体育大学附属二階堂高等学校を設立しています。

コラム

東京市とは裏腹に招致に消極的な態度を見せた政府

オリンピックを東京へ招致するためには、どうしても政府の協力が必要となる。その理由としては、財政的な側面が非常に強かった。つまり、オリンピックを開催するには競技場の建設のほか、宿泊施設の充実も求められる。

この費用は東京市では対応できかねる巨額に及んだのである。そのため、少なからず政府の協力が必要とされた。しかし、政府の反応はいまいちであった。例えば、永田市長が協力を要請した外務相の内田康哉は、34の在外公館に対して招致運動への協力を求めた。

しかしながらその内容は、「東京市は大会の開催を熱心に希望しているものの、大日本体育協会側は政府と特段関係ないものでなく、政府の積極的な運動を期待しているものではない、そのため招致に協力声援を与える程度にて取り計らうべき」、というまことに消極的なものであった。

【筆者のコメント】
招致活動に熱心な東京市と消極的な体協、その関係性が政府にも伝わり、政府側もなぁなぁの対応となっていたようです。もちろん、その後、政府は積極的に招致運動にかかわることになっていきます。
東京市と大日本体育協会との対立に一役買った下村海南と招致決定

東京市の永田秀次郎市長と秘書課長の清水昭男が第12回のオリンピック招致に乗り出したことに対し、当時の日本のスポーツ界を率いていた大日本体育協会会長岸清一は相反する意見を見せていた。日本にとってオリンピック招致などできないと言うのだ。

実際、IOC所属国の多くが占めるヨーロッパから見ると日本は遠隔地であり、来日者の宿泊施設も足りない、さらに通訳に精通している人も少ないため招致は難しいのではないかという意見もあった。そこで、永田は岸とゆかりのある朝日新聞社副社長の下村海南へ岸の説得を願い出た。

そこで下村は全体協会長でもあった嘉納治五郎の協力を仰ぎ、岸を説得することとなった。1931年1月末、下村と嘉納は岸の同意を得ることに成功した。そして1931年10月28日東京市議会でオリンピック招致案が全議員満場一致で可決されたのだった。

【筆者のコメント】
招致の壁とも言われていた岸氏の同意を得ることで、事態は一気に進み、東京市主体による招致活動が進みました。間に入った下村氏と嘉納氏の活躍に感謝したいところですね。

東京市のリードにより始まった招致活動

IOC開催地候補に立候補するには、希望都市がIOCに招致申請書を提出する必要がある。その後、各地の招致活動を通じ、最終的にはIOC総会で、開催地が決まる。その後、開催地が決定すると、その都市の属するNOC(国内オリンピック委員会)へ実務が移されるのである。

その為、招致活動には当時NOCとしての任務を行っていた大日本体育協会の賛同が必要だったのだ。しかしながら、第2代会長である岸が当初招致に反対していたため、東京市と体協との間には深い溝ができ、後にも残っていくのであった。

ところで、東京市の議員であった寺部頼助や松永東らの建議案により1931年10月28日の市会で第12回オリンピック招致に対しての検討が行われた。結果は満場一致での可決。この瞬間、東京市が主体となっての東京大会招致活動がスタートしたのだった。

【筆者のコメント】
東京市の組織の中では、東京オリンピック招致はすでに確定的に決まっていました。この建議案可決により、岸が代表を務めていた体協との共同的な招致活動がスタートするのです。

東京市長永田、秘書課清水、東京市が動いたオリンピック招致

関東大震災の後、復興に注力し、一度は辞任した永田秀次郎が再び市長に返り咲いたのは1930年の事だった。当時の政府は浜口雄幸内閣による国際協調主義を取っていた。そんな中、復興記念祭を行い、国民は震災からの復興を遂げたのだった。

記念祭ののち、東京で行われる式典と言えば、1940年が皇紀2600年にあたるのを記念してそれを祝う催事であった。そこで、東京市秘書課長を務めていた清水昭男は、永田に対し、オリンピックを開催してはどうかと提案した。

1940年にオリンピックを開催するならば、皇期2600年を記念も世界的に認められることとなる。これは国際協調主義を取る日本にとって好都合である。永田は、またとない東西文化交流の機会ができるとして永田の提案を喜んだ。さっそく永田は東京招致に乗り出すのであった。

【筆者のコメント】
それまでオリンピックを日本で開催すると言うことは夢ものがたりとされていました。しかし、実際に清水氏が永田氏に招致を提案したことで、開催実現へのきっかけとなったのですね。

東京招致決定の裏側にヒトラーの圧力はあったのか?

第12回大会開催地に東京が決まったのはIOCベルリン総会でのことだった。決定を受けて、東京市長文書化調査掛掛長磯村英一は、ラトゥール会長へ直々にあいさつに出向いた。その中でラトゥールは、「東京開催はヒトラーのおかげである」旨を述べている。

この発言の背後には何があったのか。IOCに対するヒトラーへの圧力も見て取れるからだ。当時、ヒトラーは日本への外交密度を上げようとしていた。IOC自体は理想論でいえば独立体であるのだが、当時は第二次世界大戦の前で世界的な情勢も悪化していた。

ナチスによるユダヤ人迫害も激化していたのだが、ラトゥールはIOCは他国の政治に介入しないとしてベルリン大会の開催を決行した。その実は、ラトゥールが祖国ベルギーを守るための決断であったとの見解もある。この事情から、ヒトラーのおかげで東京が決まったといえるのであろう。

【筆者のコメント】
当時、ドイツで幅を利かせていたナチスは、国外に対しても好戦的な態度を取っていました。ベルギーに戦火が及んではならないというラトゥールの決断が結果的に東京招致を導いたようです。

ドラマでは、日本人IOC委員として嘉納治五郎先生がメインですが、実は他にも2人いました。

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