いだてんあらすじ16話感想!いきなり団子を土産にネタバレ!4月28日

いだてん おりん役モデル実在?若い頃の女優夏帆(かほ)年齢や結婚? いだてん

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2019年4月28日(日)

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あらすじ

1914年(大正3年)、教員になる道を捨て、播磨屋の2階に下宿を始め、ランナーとしてベルリンオリンピックを目指し始めた四三さん。
野口(永山絢斗)ら後輩と、より過酷な状況でも走り続ける修行に励みます。

その頃、旅興行の師匠に一座を追い出された孝蔵(森山未來)は、宿代を払えず捕まってしまいます。

獄中で偶然目にしたのは円喬(松尾スズキ)死去の記事。

牢名主に芸を見せろと挑発され、孝蔵は円喬に教わった噺(はなし)を渾(こん)身の力で披露します。

この年の秋、四三さんは「日本陸上競技大会」で、2時間19分の世界新記録を出したことを、スヤと幾江に手紙を書いて知らせます。

1915年(大正4年)春、第一次世界大戦の戦乱の真っただ中、トクが英国留学を終え、東京高師を訪れ、体育協会の面々に帰国を報告します。

そんな中、四三さんのもとへ、スヤが熊本名物「いきなり団子」を土産に会いに来ましたが。

参考:Yahoo!テレビ

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感想

播磨屋で下宿
日本のスポーツ界のために、東京で頑張りたいと、新婚だと言うにもかかわらず、足袋屋さんの播磨屋で下宿する四三さんって、かなり自由な人ですね。

いまのように、アパートやマンションなどがない時代だったので、どこかに間借りするしかなかったのだと思います。

播磨屋さんの向いに、なんと三島家で女中をしていたシマさんが、三島家を辞めて、高等女子師範学校目指してミルクホールで働いているなんて、今で言ったら、カフェで働きながら、女子大を目指しているようなものなのかな。

そんなシマさんの働いているミルクホールに、治五郎先生や、可児先生がやってくると、治五郎先生が、クーベルタンが考えたというオリンピックのマークを見せます。

今、現在、広く知れわたっている、あのオリンピックのマークを、いち早く見ることができたのです。

ところが、時は第一次世界大戦です。

ここで日本がベルリンオリンピックの参加を拒否したら、このオリンピックのマークが一つ欠けることになると、治五郎先生は説明します。

そりゃないよ

牢屋に入れられた孝蔵に、いっしょにいた牢名主に芸を見せろと挑発され、孝蔵は円喬に教わった文七元結を披露しますが、なんとその傍から、寝ているじゃないですか!!!

唯一、自分を認めてくれていた師匠の円喬の訃報を知った、孝蔵は、気持ちを入れ替えて、長い髪を切ります。

芸を磨いてい、師匠に認めてもらいたかったでしょうに、その前に亡くなってしまうなんて、どうしていいのかと思ったのだと思います。

自分で奮い立たせて、一歩を踏まないといけないのです。

髪を切ったのは、そんな覚悟だったのです。

えっ?
四三さんのところへ久しぶりに会いに来たスヤさんですが、なんと四三さん、来た早々、堕落の入り口だと言って、スヤを熊本に帰してしまいます!

いくら何でも、そりゃないでしょう。

日本をしょっているのはわかりますが、不器用すぎる。

幾江ならずとも、怒りますよ。

こりゃ、困ったものだ。

いきなり団子

スヤさんが、熊本名物の「いきなり団子」を作って手土産で持ってきた団子ですが、団子というよりも大福のような感じらしいです。

もち米を使っているので、もちもち。

こちらでは1個から購入できます。

コラム

戦争の影響によって進められた建設資材の削減

日中戦争が長くなる中、政府は物資統制を厳しくし、戦争に伴う飛行機や艦隊、そして武器に用いるための資材の供出を求めていた。そのため、国民は生活道具を供給するほど圧迫される一方であった。この影響をじかに受けたのが競技場建設である。

競技場の建設には約1千トンもの鉄材を必要としていた。しかし、この大量の鉄材の需要は競技場建設をも危うくする。そこで東京市は、メインスタジアムの建設案を変更、木材を使用することで鉄材の量を600トンへと減らしたのだ。

その後、政府は「昭和13年における重要物資需給計画改定に関する件」を承認、戦争に関すること以外に対しての資材のねん出を抑制させた。この事実について、東京市の磯村英一は、「大会返上に至る決定的な原因となった」と、後に語っている。

【筆者のコメント】
競技場建設へ向けて約4割も鉄材を減らす計画案は、かなりの大幅な変更となりました。しかしそれをも準備できず軍部への供給に回すほど、日本は切迫していたようです。
全電子式放送で東京大会を盛り上げろ!

1936年当時、テレビの放送方法には2種類あった。1つは機械式、もう1つは全電子式である。機械式とは、金属板を回転させることで光を電気信号へと変換する方法である。樹電気側では円筒を配置、そこに細い鏡を巻き、回転させることで電気信号を画像に変え放送するのだ。

全電子式は撮像用、受像側ともに電気信号の送受信を利用する方法である。東京大会の放送へ向け、日本放送協会は開発リーダーを定める必要があったのだが、当時全電子式を研究していた高柳健次郎を指名し、テレビ放送の開発を行っていった。

高柳は当初、全電子式をメインに機械式を取り入れるという折衷法を取っていた。しかしながらオリンピックに際しては更なる技術の向上が必要となった。そこで高柳はブラウン管の試作を重ね、ついに浜松高工式全電子式テレビジョンを開発した。そして、日本放送協会はこの方式で大会の中継を行うと決めたのだった。

【筆者のコメント】
全電子式の技術が広まる前は、早稲田大学が中心となり機械式の研究を盛んに行われていました。より質の良い方法を追及していくうちに、高柳氏の全電子式が主流となっていきました。

組織委員会には政府関係者も入れるべき!嘉納、副島の主張

全日本体育協会が示した組織委員のメンバーはほとんどが体協関係者であり、東京市や政府関係者は除かれていた。これに反発したのが東京市長の牛塚であったが、IOC委員の嘉納治五郎も同じく反対意見を持っていたのだ。

嘉納は、東京大会は国家的な大事業であるから体協のみならず財政界を組み入れた構成が必要だとした。しかし、同じくIOC委員である副島道正は違っていた。ベルリン大会の反省から、政治は排除し、スポーツ精神に則るべきだというのだ。

両者の対立があったものの、1936年11月13日、ベルリンから帰国した嘉納は、文相平生釟三郎を訪問、国を挙げての準備、そして組織委員会への政財界の代表の参加を求めた。結果的に嘉納の意見が通り、組織委員会にはスポーツ界のみならず国内諸団体の代表が選出されることとなった。

【筆者のコメント】
オリンピックは国家的に招致するものであるから、政財界の代表も選出すべきだとする嘉納氏の意見、スポーツ界で固めるべきであるとする副島氏の意見、両極端ですが、どちらも大会成功にとって必要な考え方ですね。

早稲田大学山本忠興のオリンピックに賭ける想い

早稲田大学の教授であった山本忠興は、電子工学を研究する傍ら、早大競走部の部長も務めていた。山本はスポーツ界でも活動しており、1928年に開催されたアムステルダム大会では日本を率いる団長として日本選手団を牽引した。

その山本は、いつか日本でのオリンピック招致を夢見ていた。しかし、当時の日本ではオリンピックの招致運動を唱えているものはおらず、招致の糸口を探していたのだ。そこで、1929年、スウェーデンのIOC委員エドストロームが来日した際、山本は面会を求めた。

その中で、日本の招致可能性について確認したところ、エドストロームからはまずは、開催希望年をIOCに伝えなければならないと方策を示した。それと同時にエドストロームは日本が遠方であることが難点であることも伝えた。山本にとっては招致可能性があるとわかっただけでも収穫であり、さっそく招致活動に乗り出したのだった。

【筆者のコメント】
山本氏にとって、日本が遠方であるため招致が難しいとよりも、招致可能性があることに希望が見えたのですね。

体協にとって想定外だった政府の大会返上決定

1938年7月14日、商工省が万国博覧会の延期を決定、さらに厚生省は第12回オリンピックの中止を決定する。しかし、全日本体育協会のメンバーには、全く経緯が伝わっておらず、会長の下村宏や副会長の平沼亮三らは開催へ向けての活動を行っていた。

また、フランスで東京大会中止とのニュースが流れていることを知ると、組織委員会事務総長の永井松三はフランスのIOC委員フランソア・ピエトリに中止は断固否定する旨の電報を打った。組織委員会は、政府の動向に気づいていなかったのである。

海外から返上のニュースを聞かされたことで、体協は厚生省から外堀を埋められるかのごとく、返上撤回の余地がないことを悟った。かくして、体協においてもオリンピック返上の事実を受けいれることとなったのである。

【筆者のコメント】
オリンピックの招致段階では消極的だった体協も開催が決定する頃には積極的な準備を始めるようになりました。その中での想定外の返上決定には驚かされたようです。

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