いだてん高石勝男(斎藤工)の家族や子孫は?クロールオリンピック出場

いだてん ネタバレ 38話(10/6)古今亭志ん生ビートたけし脳出血「長いお別れ」 いだてん

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大河ドラマ「いだてん」で、日本水泳会のスターと呼ばれた高石勝男さんを、俳優の斎藤工さんが演じます。

斎藤さんは、実際の映像が残っていることから、ドラマでは迫力のあるモノになると話していますが、高石さんとはどのような人なのでしょうか。

まとめてみました。

高石勝男の経歴とプロフィール

高石 勝男(たかいし かつお)

生年月日:1906年(明治39年)10月14日~1966年(昭和41年)4月13日

ちなみに高石選手が生まれる前年の1905年には、母校の早稲田大学で、「早稲田大学游泳部」の看板をかかげて活動が始まっています。

この時は、神奈川県逗子海岸の農家を借り、練習を行っていました。

出身地:大阪府

出身学校:近代水泳発祥地の茨木中学校(現大阪府立茨木高校)、早稲田大学

競泳選手であり、元日本水泳連盟会長。

大正8年、茨木中学校入学

茨木中学校時代に、日本で初めてクロールを駆使して、水泳界を席倦します。

クロールを指導したのは茨木中学の杉本伝教諭で、彼はダニエルスの「Speed
Swimming」の原著を読み、特に心肺能力の高い生徒を選んで指導しました。

日本泳法を用いる選手は、歯が立たなかったそうです。

1924年(大正13年)、パリオリンピック出場すると、100m、1500m自由形の2種目で5位入賞を果たしますが、当時の関係者の間では、まったく予想していなかった話のようです。

日本水泳にオリンピックで初入賞をもたらし、日本水泳界を一躍世界水準に上げた選手として、昭和初期、人気の的になったそうです。

斎藤工さんが役を演じるのも、単に容姿だけのことではなかったのかもしれません。

こんなエピソードが^^;

1928年アムステルダムオリンピックでは、800mリレーで銀、100m自由形で銅の2つのメダルを獲得しています。

1932年、ロサンゼルスオリンピック代表に選ばれますが、出場は果たせませんでした。

1964年の第18回夏季オリンピック東京大会では水泳日本代表総監督を務めます。

芦屋市教育委員会などの協力を得て芦屋水練学校を創立します。

日本水泳連盟会長、日本体育協会理事等を歴任し、紫綬褒章、叙正五位授勲三等瑞宝章を受章。

早稲田大学の戸山キャンパスには、高石勝男を記念して建設された「高石記念プール」があります。

1965年には室内温水に、そして1992年に全面改装されます。

実業家としては近畿産業社長も務めています。

1966年4月13日、59歳、芦屋の海とプールに面した芦屋霊園に眠る。

いだてん高石勝男(斎藤工)の家族や子孫は?

残念なことに、ご家族については、情報が得られませんでした。

クロールなんて、当たり前のようにありますが、高石さんが水泳を始められたころは、日本の古来からの泳法はあっても、できる人がいなかったのですね。

指導してくれた先生もまた、スゴイなと思いました。

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コラム

東京大会、競技種目は何を組み入れるべきなのか?悩む組織委員会

1936年当時、オリンピック憲章に定められていた競技は、公式競技と選択競技に分かれていた。公式競技は、水泳、体操、陸上、レスリング、ボクシング、フェンシング、ボート、射撃、馬術、近代五種、自転車、ウェイトリフティング、ヨット、芸術であった。

選択競技は、サッカーやラグビー、ホッケーなどが指定されていた。ベルリンオリンピックでは、公式種目が14競技、そして、サッカー、ポロ、水球、ハンドボール、バスケットボール、ホッケー、カヌーを選択種目とした。

その中で、日本はどのような競技種目を選ぶべきなのか。日本スポーツ事情と勘案すると、公式競技の射撃、フェンシング、そして近代五種競技は縁遠いものだった。そこで、これらの競技をどうにか種目から外すことはできないのかと検討が始まった。

【筆者のコメント】
オリンピックの種目は21種類と当時は定められていました。公式競技は必ず組み込む必要があったのですが、日本人が成績を残していない種目は組織面も未熟だったため組み込むのは抵抗があったのでしょうね。
東京大会はテレビ中継で感動を!

ベルリン大会は、オリンピックでは初めてテレビの中継が行われた記念すべき大会である。とはいえ、現在のように家庭にあるテレビで電波を受信するものではなく、ケーブルを使用しての受信だった。ベルリン市内の28か所にテレビを設置し、ケーブルでつないで情報を送ったのだ。

中継はされたものの、映像は荒く、輪郭のみがわかるレベルの中継だった。視聴者はアナウンサーの声があってやっと状況を把握できたのだ。しかし、生中継で試合を見られるのは格段の進歩だった。これを知った日本の放送関係者は衝撃を受ける。

東京大会は4年後に控えている。関係者の間では、ドイツで中継という技術を取り入れたのであるから、東京大会ではもっと技術を向上させなければならない。選手たちの躍動感をより美しい映像と音声で伝えなければならないという想いが湧き上がっていた。

【筆者のコメント】
東京大会はベルリン大会から4年後ということで、技術の進歩が見込めました。そこで、日本の放送関係者は生中継技術の研究を進めました。
東京大会強行よりも名誉の返上を!

1937年に発生した盧溝橋事件が日中関係を悪化させ、ついには日中戦争へと発展した。競技場の建設には1千トンもの鉄材が必要とされるのに、戦争への資材供出でその材料がねん出できなくなっていた。それでもIOC委員の嘉納は開催に意欲を見せていた。

確かに、競技場の規模を縮小して開催を強行することはできたのである。しかし、海外からの視線は、冷ややかなものだった。IOCには戦争を続ける国においての開催は中止すべきではないかとの電報が150通も集まり、参加国によるボイコットの可能性も高くなってきた。

そこで、副島IOC委員は苦渋の決断として東京大会の返上を決めた。戦争が続く中で大会を強行するのは国際信義を欠くと確信したのである。そして、1939年7月15日閣議において返上が決まった。夢にまで見た東京大会が幻に終わってしまったのだった。

【筆者のコメント】
これまで東京開催に向けて動いてきた関係者にとって返上は苦渋の決断でした。しかし、返上することで国際的な日本への信用は守ることができたのですね。

東京大会招致の立役者永田秀次郎

オリンピック招致に名乗りを上げた、立役者ともいえる存在が東京市長を務めていた永田秀次郎だ。彼は、1923年の関東大震災当時、東京市長を務めていたが、1924年に東京市会と衝突し、いったんはその職を退いた。ところが、その6年後、1930年5月30日、東京市長としての地位に返り咲いた。

当時は間接選挙制が採用されており、市民ではなく、市会議員による投票が行われていた。前回の辞任後、別の者がその職に就いていたのだが、震災後の財政再建など問題を数多く抱える市政において、それを先導できるのは永田氏しかいないとの意向である。

東京市民にとっても、復興計画をリードしてきた永田の再任に、喜びがわきあがった。就任から10年後の1940年は日本書紀における紀元2600年に当たる。そこで、その祝いと都の復興にあたり、オリンピック招致が永田氏の下進められることとなった。

【筆者のコメント】
震災後、東京市政は、大幅に乱れていたようです。一度はトラブルがあった永田氏でしたが、現状を知り尽くしていた永田氏の再任に市民は安心し、オリンピック招致計画に沸き立つのでした。

東京大会返上に関して分かれた海外からの評価

東京大会の返上を受けて1940年の後継地はヘルシンキと定まった。今回、東京大会のIOCへの返上申し出に対し、各国からは様々な評価が集まった。日本での開催を長期にわたり支持してきたラトゥール会長は、返上は残念であるが、後日改めての開催を希望する旨を述べた。

さらにニューヨーク紙は、「日本の中止決定を世界は歓迎するであろう。文明的に進んだ各国の意思を無視してオリンピックが開かれるのは皮肉でしかない」と評している。また、イギリス紙でも、「日本が招待状を出したならば各国はボイコットしたであろう。中止の決定はオリンピックと日本とを救った。」と、中止を喜んでいた。

これに反して、これまで誠意的に日本を支持してきたブランデージ委員は、事前の相談なしに中止を決めたことは遺憾であるとのべている。この発言は、真剣に東京招致に向き合っていた証であろう。このように、返上に対する各国の評価は分かれたものの、おおむね返上に賛同する者が多かった。

【筆者のコメント】
東京大会返上を海外に伝えたとき、これまで日本を強く支持してくれた人ほど、そのニュースに落胆したようです。しかし、強行開催よりは返上の方が日本としても信頼を保持できたと言えるでしょう。

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