NHKの朝ドラ「あぐり」の主人公である望月あぐりの夫・望月エイスケさんを野村萬斎さんが演じ話題になりました。
単純にドラマで、野村萬斎さんが演じたことで人気になったのかと思ったのですが、エイスケさんのモデルとなった吉行エイスケさん自身、とても魅力あふれる人だったようです。
吉行エイスケさんについてまとめました。
吉行エイスケの死因は?
吉行エイスケさんは、1940年(昭和15年)7月8日、狭心症により34歳でお亡くなりになられています。
次女の理恵さんの1歳のお誕生日の翌日だったそうです。
あぐりさんと出かけ、帰りに「ちょっとおかしい」と言っていたのですが、あぐりさんは、それほど気に留めていませんでした。
ところが晩になり、エイスケさんが苦しみだしたので、近所のお医者様に来ていただきましたが、間に合わなかったそうです。
吉行エイスケの画像は?
1926年(昭和元年)頃の吉行エイスケ・あぐり夫妻の写真です。左の赤ん坊が淳之介、抱いているのがエイスケの母親の盛代さんです。朝ドラでは野村萬斎がエイスケを演じてましたね。 pic.twitter.com/E2bGkpR5Eg
— 明治・大正・昭和の写真 (@polipofawysu) March 21, 2018
吉行エイスケと吉行淳之介 pic.twitter.com/62YNhsOudc
— ジャンボ尾崎手配犯 (@hayasiya7) July 6, 2020
吉行エイスケのプロフィール
本名:吉行栄助
生年月日:1906年(明治39年)5月10日
岡山県御津郡金川町に土木請負業(吉行組)を営む吉行澤太郎、盛代の長男として誕生します。
1922年(大正11年) 第一岡山中学校(現在の県立岡山朝日高校)を16歳で中退。
エイスケさんの10個上の先輩に
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エイスケさんの6つ下の後輩にメンズファッションの神様と言われた石津謙介さんがいます。
「スタジオL」(大林宣彦・高橋幸宏・石津謙介)の映像です。https://t.co/FQwzlhs3Wr
— カエル岩 (@kaeruiwa1963) April 11, 2020
それと「火垂るの墓」高畑勲監督!
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東京の目白中学に在籍します。
12月「ダダイズム」に詩を発表。
1923年11月15日、17歳で吉行あぐりと結婚し岡山市桶屋町に転居
1924年(大正13年)、18歳「売恥醜文」創刊号を出します。長男の吉行淳之介誕生。
1926年 東京に転居。「虚無思想」創刊号を出します。
エイスケさんは新宿上落合でバー「あざみ」を経営します。
ちょうどこのころから、いわゆる「モボ・モガ」という言葉が出てきたようです。
わたしもモボ・モガ大好きです💞😍💞 https://t.co/R4ixK7u7PE
— ヨロズデザイン=YOLO's DESIGN (@yolo_design) July 2, 2020
1929年(昭和4年)23歳 「葡萄園」同人となる。この頃上海に数度渡っています。
あぐり「山の手美容院」を開店。
1930年 「近代生活」同人となる。この頃、日本大学芸術科で講師を務めます。
1931年(昭和6年)銀座の百貨店「伊東屋」内にあぐりさんの初の支店がオープン
新宿淀橋のムーラン・ルージュ新宿座にエイスケさんは文芸顧問として迎えられます。
パリを真似して、新宿の歌舞伎町にもムーランルージュという劇場が、戦前と戦後に存在していた。 pic.twitter.com/tpkQPUIxju
— 代々木会館研究【千代澤K】代々木千駄ヶ谷?? (@K_Chiyozawa) October 1, 2020
1931年(昭和6年)の今日は、
東京・新宿に軽演劇の劇場「ムーランルージュ新宿座」が開場した日。新興の街・新宿に開館し軽演劇やレヴューを上演して学生や知識層の人気を集め、多くの作家、俳優を輩出して1951年(昭和26年)に閉館した。
五反田、器https://t.co/W5F4n0zBko pic.twitter.com/LDYVHjSMkF— utsuwa-Shun (@ShunUtsuwa) December 31, 2020
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1932年(昭和7年)「新潮」10月号「純文学の危機について」での座談会では、川端康成、井伏鱒二、小林秀雄などの参加者にエイスケさんも加わっています。
1934年 文筆活動を辞め、株式を生業とします。
1935年、29歳、長女吉行和子誕生。
1939年 次女吉行理恵誕生。
新興芸術派の旗手として数多くの著作を発表しています。
まとめ
ここのところ「おしん」や「澪つくし」の世界ばかりだったので、戦前の日本の印象がすっかり「おしん」「澪つくし」の色に染まってしまったのですが、エイスケさんの作品を読んで、ちょうどエイスケさんが行き来していたころを舞台にした映画「上海バンスキン」を思い出しました。
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エイスケさんは、あぐりさんに行き先も告げず、上海などにプラッと行ってしまっていたそうなのです!
当時、上海へはパスポートがなくても外国人が身元を調べられなくても行かれたのだそうです!
当然ではありませんが、本国にはいられないようなワケありの人も少なくなかったらしい。
そんなこともあり、戦前の上海は、日本の庶民がよく行っていたそうなのです。
長崎から上海行の定期便が週2回あり、一昼夜で着きました。
エイスケさんの作品を読むと、上海だけではなさそう??
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新興芸術家と言う意味も、なるほどです。
魔都と言われた上海に、エイスケさんはハマったのかもしれませんが、あぐりさんには、そんな話はしていなかったようです。
あぐりさんとエイスケさんは、昔の親の価値観で勝手に決めた結婚だったかもしれないが、2つとない人生を歩めたのではと思う。
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