こんにちは。きゃんでぃです。
アランドロンは、ほんとカッコイイと言うか、いい男の代表みたいなものですよね。
そのアランドロンが、俳優業を引退とか。
わざわざ引退宣言する必要があるのかなとも思いますが、ちょっと気になったので、まとめました。
アランドロンのプロフィールと年齢
生年月日:1935年11月8日(81歳)
出身地:フランス・オー=ド=セーヌ県・ソー(パリの南に位置する町です)
国籍:フランス
身長:184cm
父親は、小さな映画館を経営し、母親は女優を目指したこともあったそうです。
4歳のとき両親が離婚、その後、父も母も、それぞれ再婚をして、どちらも子どもが生まれました。そのことから、アランドロンは、隣町のフレンヌへ里子に出されます。
里親は退職した刑務官で、フレンヌ刑務所の官舎で暮らし、そこを遊び場にしていました。
やがてあずけられた寄宿学校では、成績優秀でスポーツも万能。しかし、素行が悪く、退学と転入を繰り返します。
14歳のとき、母親の再婚先に戻りました。
義父は、惣菜店を営んでいました。charcutier(現在は、他の経営者になっている豚肉屋の意味)
アランドロンは、一時、ソーセージ職人を目指しましたが、新しい家庭になじめませんでした。
家から出たくて、17歳で志願兵として入隊し、インドシナ戦争へ従軍します。
人を殺してもおかしくない状況でしたが、幸い、人を殺すことはありませんでした。
その後、休戦協定が結ばれ20歳で除隊。
パリの安ホテルピガールに落ち着き、市場で働きながら、夜な夜な遊び歩きます。
女の子には、モテまくっていました。
1957年の夏、サンジェルマンにいたとき、女優のブリジット・オーベールから「カンヌ映画祭があるけれど、あなたほどの美貌なら、監督の誰かから声が掛かるかもしれないわよ?」と言われた。それがきっかけで、ハリウッドの一流エージェント、ヘンリー・ウィルスンにスカウトされます。
その3日後には、ローマの撮影所で、映画「武器よさらば」撮影中に、スクリーンテストを受け合格し、アメリカでの成功に太鼓判を押され、英語の習得を条件に契約を持ちかけられます。
しかし「私はフランス人なので、まずはフランスで勝負をしたい」と一旦保留に。
女優エステラ・ブランの紹介で、イヴ・アレグレ監督の1957年「女が事件にからむ時」(共演:ジャン=ポール・ベルモンド)21歳でデビューします。
一機にスターダムへとのし上がりますが、華麗な女性遍歴にもなります。
3作目の映画「恋ひとすじ」にて、ロミーシュナイダーと共演すると、早くも恋に落ちます。
ロミーシュナイダーの方が、はるかに役者としては格上でしたが、婚約に至ります。
1960年、ルネ・クレマン監督「太陽がいっぱい」に主演。ニーノ・ロータの曲と共に大ヒットし有名になりますが、この映画にロミーシュナイダーがエキストラで出演しています。
ふたりが良く利用していたシャンゼリゼのレストラン
Restaurant Fouquet’s Paris
二人の永すぎた春は、5年で終わります。
アランドロンがNHK BSプレミアム「アランドロンラストメッセージ~映画人生そして孤独」(2018年9月22日放送)でインタビューをした定宿がこちら
A taste of Versailles in our spectacular Presidential Suite, Jardin des Tuileries view. ✨ #DCmoments pic.twitter.com/muNIrLxrXc
— Le Meurice (@LeMeurice) 2018年5月31日
アランドロン引退
「この歳だし、ここまで俳優としてやってこられたし、もう終わりにする。人生の終わりではないが、キャリアの終わりだ」
最後に映画と舞台1本ずつ出演してから引退するそうです。
アラドロン子供息子?結婚と妻は?
1962年、ドイツ人のモデル・歌手のニコ(1938年10月16日~1988年7月18日)との間に、長男クリスティアンができますが、彼は未だに認知をしていないとか。
クリスティアンはドロンの実母に育てられています。
ちなみに、このニコは身長180cm!
ニコは、アランドロンとの間に子供を設け、その後、アンディーウォーホールのプロデュースするザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド のメンバーになったり、なんだかスゴイ人生です。
1963年、ナタリー・バルテルミー(のちナタリー・ドロン)と出会います。
1964年にナタリーと結婚、息子アントワーヌ(後にアントニー・ドロンAnthony Delonの名でデビュー1964年9月30日)が生まれる。
1966年映画「サムライ」に出演したことにより、女優を続けたいと願うナタリーと対立し、やがて離婚します。
ナタリーとの結婚が唯一で、それ以外は子供はもうけても結婚はしていません。
息子のアントニー・ドロンは、2006年にソフィー・クレリコと結婚し、ルー・ドロン(長女 1996年2月4日生まれ)とリヴ・ドロン(次女 2001年8月25日)を授かりますが、2012年に離婚しています。
その後、1968年ジャン・エルマン監督の「ジェフ」の撮影で初めてミレーユ・ダルク共演したことで、それ以降50年近く長い愛人関係にありました。
アラドロン子供息子アランファヴィアンドロンは?
1987年にオランダ人モデル、ロザリー・ファン・ブレーメン(1966年8月2日生まれ)と出会い入籍はしませんが、アヌーシュカ(1990年11月25日生まれ)とアラン・ファビアンの2子をもうけるものの、2002年に別れます。
ロザリーファンブレーメンの経歴をwiki風で!身長やインスタグラム
ディオールの顔としてモデルを務めています。
アラドロンデヴィ夫人との画像!
そもそもデヴィ夫人は、1965年インドネシアのスカルノ大統領が失脚し、長女を連れてパリに亡命しますが、パリの社交界で、東洋の真珠と称されます。
アランドロンと初めて会ったのが1964年の東京の帝国ホテルで、デヴィ夫人が結婚をしていた頃、東京オリンピックで来ていた時。
外出するときに、デヴィ夫人がロビーを通ると、いつもアランドロンがいたので、スカルノ大統領が「お前がお目当てなんじゃないか」と言うほど。
その後、40年ほど前、ロスチャイルド家のパーティーでアランドロンと再会しますが、元彼と言うほどではないそうです。
デヴィ夫人とうたかたの恋を楽しんだそうです。
写真は、マキシムドパリ
まとめ
引退にあたって、舞台に出演されるそうですけど、チケットの争奪戦がスゴイでしょうね。
ウン十万の値がつきそうですけど、いや~ちょっと観てみたいです。

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